円満成就する念を忘れよう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年8月12日】以前、ある道士の修煉の物語を読んだことがあります。その大体のストーリはこうです。「可玄」という道士が山の奥で修業し、毎日、彼は山を下りて、この山を乗り越えようとする往来の人々を助け、荷物を運んでいました。山路が険しく、お客さんを送る度に大変な苦労を要します。日々を重ね、年数を重ね、瞬く間に20年が過ぎました。

 ある日、可玄は思いました。「修業をしてから、もう20年になりますが、私はそろそろ円満成就できるでしょう」。彼はそう思いながら下山し、ある老人に遇いました。その老人は大変そうに荷物を担いで山を越えようとしています。彼はさっそく老人の荷物を手に取り、自分の肩に載せました。老人は歩きながら尋ねました。「あなたの名前は何と言いますか?」「可玄と申します」と可玄は答えました。少し歩いてから、老人はもう一度、「あなたの名は何と言いますか?」と聞きました。「可玄です」と可玄は答えました。しばらく歩いてから老人は再び可玄の名前を尋ねましたが、この時、可玄道士はすでに山の中腹に来ており、肩に載せている荷物がますます重く感じ、額には汗がひたすら流れていて、呼吸もまともに取れなくなっていました。この状況下でも老人は繰り返し「あなたの名前は何と言いますか?」と聞いてくるのです。目から火が出るくらい疲れていて、歩けなくなった可玄道士は、大声で老人に答えました。「可玄、可玄、可玄、もう聞こえましたか? 私の名は可玄です!」

 老人は怒り出した可玄を見て、言いました。「あ、あなたは可玄という名ですか? 私は耳が遠いので、今はちゃんと聞こえました」。その後、可玄道士は突然、肩の荷物が軽くなったように感じ、振り返ってみると、老人と荷物は消えていました。このとき、一枚の紙が空から舞い降りてきました。そこに四句の詩がありました。「可玄は可哀想、一心に円満成就を望み、たとえ世間の苦を嘗め尽くしても、この心では仙人になるのは難しいであろう」。可玄は試練に乗り越えられなかったことを後悔してやみませんでした。

 9年の歳月が過ぎ去り、可玄は思いました。「私の境地はもう以前とは違い、大分成熟してきました。そろそろ円満成就できるだろう」。そう思って、彼はいつもの通り山の麓に下りてきたところ、杖をついて、荷物を抱え、山を登ろうとしているある老婆に遇いました。可玄は老婆の荷物を手に取り、一緒に山を上り始めました。このとき、老婆は聞きました。「お名前は何と言いますか?」「可玄と申します」「お名前は何ですか?」「可玄です」。可玄はふっと思いました。「もしかして、再び仙人に会ったのではないでしょうか? 今回はしっかり答えなければなりません」。しかし、何回か聞いてから、老婆は再び尋ねませんでした。しばらく歩いてから、可玄は後ろが静かになったことに気づき、振り返ってみると、老婆が消えていました。そして手に持った荷物も消えて、代わりに、一枚の紙が残っていました。そこに同じく四句の詩が載っていました。「可玄の状況は厳しい、幾ら苦労しても円満成就のためで、たとえ世間の苦を嘗め尽くしても、この念があれば仙人にはなれないであろう」

 可玄はこの四句の詩を暗唱し、今まで歩んできた道を振り返り、大いに悟りを得ました。それから、彼は円満成就を念頭から完全に消し、毎日、本を読んだり座禅を組む以外、下山し往来する人々を助け荷物を運んでいました。毎回、彼はそれを自分のことだと思い、真心を込めて、何の報いも求めず、ただ自分がこうであるべき生命だと思い、他人を思うべき生命であることを思いました。

 2年後、可玄道士は円寂しました。彼の弟子、弟子の弟子は彼と同じく、毎日往来する人々を助け荷物を運んでいます。しかし、人々がいつも言うには、「この山で修行する道士の中で、可玄だけが真の仙人ですね」

 可玄の物語から、私は自分の円満成就に対する認識を考えてみました。以前、師父の「もう時間は多くありません」「そろそろ終わりに近づいています」などの説法を読むと、私は、「衆生を多く救おう。或いは、なるべく早く円満成就の境地に達し、遅れてはならない」と理解していました。しかし、そこにはもっと深い悟りが欠けていました。それは「時間や円満成就への執着を持ってはならないこと」でした。2011年以来、師父は度々「時間はもう多くありません。そろそろ終わりに近づいています」と言われてきました。特に『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』の中で、師父はおっしゃいました。「いつ終わってもおかしくありません。次の段階もいつ始まってもおかしくありません」。私の悟りとしては、師父がここ数年、ずっと時間が多くないことを言及されたのは、私達に時間や円満成就への執着をなくし、円満成就を忘れるようにということだと思います。もし私達が「いつ終わるだろう? 今年? 来年? 何月?」と常に考えていれば、それは可玄と同じではありませんか? それなら、来るべきことも来ないかもしれません。

 個人の次元での浅い悟りですが、同修のご指摘を宜しくお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/10/277935.html)
 
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