私が歩んできた修煉の道(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年1月12日】(次の文へ

 私は1998年、41歳の時、幸運にも法輪大法の修煉の道を歩み始めました。

 私の父親の実家は地主でした。環境は私を臆病にしました。私はまだ幼い頃のことをよく覚えています。子供の私は本の上に、適当に1つの半円形を書いただけで、私が孫悟空を書いていると人に言われ、村の幹部は村人を集めて、父を吊るし上げました。

 母はとても優しくて、私を特別に可愛がってくれました。私は20歳の時、盲目の人に占ってもらい、43歳までしか生きられないと言われました。母はいい事を多くすれば寿命は延びると教えてくれました。当時、私にはすでに11種類の慢性病を患っており、漢方医、西洋医、巫術医、私はなんでも信じました。しかし、どれも私の病気を治療できず、しかも、繰り返し発病しました。私は母にどうすればもっといい人になれるのかと聞きましたが、母は「私はこれ以上分かりません」と言いました。

 私の結婚も不幸でした。35歳になってやっと男の子を授かりました。当時、この世で唯一気がかりなのは、母と子供だと思いました。修煉する前の私は、母がいなければとても生きていけませんでした。私は人生に対してたくさんの疑問を持っていて、いつも何かを探し求めていました。生きる目標がなかったため、小さな商売と麻雀が私の人生の主な内容でした。

 本当に神が存在する! 家族三人が大法修煉を始めた

 1998年2月のある日、マージャンをする人が足らず、心は辛くて、人と世間話をしようと、商売仲間の所に行きました。彼女は法輪功を修煉していると言いました。私は「じゃ、法輪功の話を聞かせてください」と言いました。

 彼女はもう二年間修煉をしていて、それから薬を飲んだことがないと言いました。私はすぐに「それなら、私も薬を飲まないようにします」と言いました。彼女は「あなたはこの『転法輪』という本に基づいて修煉しなければならない。円満成就になれば、死ぬことがなく、肉体を持って法輪世界に行けます」と言いました。彼女は一冊の『転法輪法解』を買って来たため、私はその場でその本を譲ってもらいました。彼女は「あなたはまだ修煉していないから、買わなくてもいいですよ」と言いましたが、私は「私は修煉します」と即答しました。その日、彼女は五式の功法を教えてくれました。家に帰った後に私は『転法輪法解』を読んで、ずっと夜中3時半まで読みました。「本当に神が存在するのですね」と、私の感激した気持ちはとても言葉で表現できませんでした。私は大法修煉を決意しました。

 80代の母と5歳の息子も当然私について、修煉を始めました。私達は毎日煉功に行って煉功しました。皆さんは法輪功の要求に従って、いい人になるようにして、とても楽しい毎日を過ごしました。修煉を始めて15年間、私は師父に見守られ、病気も災難もなく、入院することも薬を飲むこともなく、民間処方を使ったことがありませんでした。

 ある日、息子が熱を出したため、夫は息子を病院に診察に連れて行きました。体温が39~40度だったので、病院で注射をして、薬を三袋もらってきました。医者は家に帰って少し観察してください、もし駄目でしたら、大病院に行きなさいと言われました。家に帰ってきて、息子をベッドに寝かせ、私はベッド側で法を学び、夫はテレビを見ていました。夫はしばらく経って、良くなったか? と聞き、私は大丈夫だと答えました。こうして、何回も繰り返しました。しかし、息子は高熱で少し痙攣して、目線も硬直していました。私は師父のお言葉「自分のものなら、無くなることはない」[1]と思いつきました。それを思った途端、息子はトイレに行きたいと言いました。夫は息子を持ち上げました。息子の頭から汗が水のように垂れていました。私は師父が彼を見ておられると分かりました。息子は数分間で2度トイレに行って、その後完全に治りました。私は心の中で、「偉大な師父の慈悲なるご済度に感謝します。弟子は必ずしっかり修めます」と言いました。

 母は私と一緒に修煉を始めた時、すでに84歳の高齢でした。修煉して3カ月の時、消業するため、ベッドで一週間寝込んでいました。しかし、その時、顔色はいつもよりよく、一日四、五回ご飯を食べました。母は天目からたくさんの菩薩、羅漢、また師父の法身と法輪を見たそうです。また目を開いたままで、天井にたくさんの文字が見え、目を閉じたら、その文字がさらに大きく近くに見えると言いました。師父が母に文字を覚えさせたいのではないかと、私は悟りました。

 しかし、母は精進しませんでした。私と一緒にいれば、しっかり修めましたが、私がいなかったら、母は怠けたりしました。ある日、3番目の姉は、修煉は大変だから、煉功を止めたほうが良いと言って、母を自分の家に連れて行って、皆と麻雀遊びをさせました。その後、母は病気になり、しかも深刻でした、3番目の姉は母の面倒を見きれず、母を送り返して来ました。

 帰ってから数日後、母は嘔吐したり、下痢したりしました。しかも血を吐きました。3日連続でした。母は自分がもうすぐ死ぬと言って、兄の所に送ってほしいと言いました。私は「それは師父があなたの体を浄化してくださっているから、何の問題もない」と言いました。やはりその通りで、4日目になって、母は完全に治りました。しかし、私が家にいない時、3番目の姉はまた母をこっそりと迎えに来ました。母は20数年前に慢性盲腸炎になったことがあって、今度、3番目の姉の家で再発しました。3番目の姉は母1人を家に放ったらかして、家族全員で逃げました。夫は母を病院に送って検査をしました。医者は盲腸炎で、しかも化膿しており、手術をしなければならないと言いました。母は断固として手術を拒否しました。医者は夫に、手術をしなければ明日まで生きられないと言いました。

 私は母に言いました。「医者はあなたが明日までしか生きられないと言っています。これだけ素晴らしい大法を、止めなさいと言われたら、あなたは止めるのですか?」

 母の顔色は真っ青で、一言も言いませんでした。私はちょっと考えてから、「師父にお願いしましょう。師父があなたを許してくださるかどうか見ましょう。許してくださるならば、明日元気になりますよ」と言いました。私は掛け布団を持って来て母の体を包んで、母に座らせ、私は師父の写真を持ち上げ、師父に謝らせました。母は「師父よ、私は間違いました。いくら辛くても、私は修煉を続けます。私はこれ以上他人の言うことを聞きません。お許し下さい」と言いました。

 私は母に45分間の静功の音楽を流しました。音楽が終わると、母はすぐに「もう良くなった、もう痛くない」と言いました。また「ほんとうに奇跡です! 全部良くなりました。前よりも元気になりました」と言いました。師父は洪大な慈悲で母にもう一度修煉する機会をくださいました。師父は「延ばされた生命は百パーセント修煉に用いなければならないのです。常人の中で生きていくためではありません。」[2]とおっしゃいました。師父は母に8年間の命を延長してくださいました。最後、母は私に見取られ、亡くなりました。母は苦しみもなく息を引取りました。しかし、私はやはり、母は師父の慈悲なる済度に申し訳ないと思いました。

 修煉の道の魔難

 私は小さな商売をしています。修煉後、私は金銭をとても軽く見るようになり、毎日、店で法を読みました。読めない字があれば、必ず人に聞きました。私は本を読めることを、とても嬉しくなりました。

 2000年の旧暦4月8日、私は同修の家で法を習っていた時、人に密告され、警官に不法連行され、15日間麻薬中毒回復所に拘禁されました。私はそこで『論語』を暗唱でき、6日間絶食しました。その間、師父が私の天目を開いてくださって、私はとてもすばらしい光景を見ました。

 家に帰ってから、人は「あなたはもう煉功する勇気がないでしょう」と言いました。私は「これだけ素晴らしい功法なのに、どうして煉功する勇気がないでしょうか」と言いました。私は彼らに『論語』を暗唱して聞かせました。彼らは「わあ、あなたはますます度胸が大きくなりましたね」と言いました。

 私は相変わらず店で本を読みました。誰が私に「どんな本を読んでいるのですか?」と聞かれたら、私は大法の真相を話して聞かせました。

 1,家庭の魔難

 夫はよく商売仲間にお茶や、食事に呼ばれました。大体一カ月後、もともととてもおとなしい夫は、夜の帰宅が遅くなりました。私は修煉者なので、多く考えませんでした。ある日、私は彼が私に黙ってお金を持ち出して、そして外泊したことに気づきました。私はやっと、彼が不倫していることが分かりました。友達も彼に止めるよう勧めましたが、彼は全く聞く耳を持たず、私と離婚しようとしました。私は修煉者で離婚は出来ないとわかっていますが、しかし彼のことを諦めようと思いました。

 ある日、煉功したとき、彼が蛇の精に付き纏われていると突然思いつきました。なぜなら、その前、彼は自分が蛇と一緒に寝ている夢を見たと言いました。私は修煉者なので、必ず彼を救わなければならないと思いました。そうしないと、彼は危なすぎます。命がなくなるかもしれません。私は彼を探してきました。彼の体重はただ43キロしかなくなり、目を閉じたら死人みたいな感じでした。しかし、相手の女が電話をして来ると、彼は気が狂ったかのようになり、人が居るかいないか、場所に構わず私を殴ったり、蹴ったりしました。しかも一回か二回だけではありません。

 しかし、毎回私は心性をしっかり守りました。師父が私に「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」[2]と教えてくださったから、私は彼に対して怨恨の心を持たず、先生がおっしゃった通りに彼のことを優先して考えるようにしました。私は彼からの妨害を受けず、毎日店でお客さんに法輪大法が素晴らしいと伝え、夜中を過ぎると家ごとに真相資料を配りに行って、真相シールを貼りました。夫も次第に変わり、大法の真相DVDも全部見ました。私が大法のことをやっても、彼は干渉もせず、同修が来てもなにも言わなくなりました。

 2真相を伝えて警官に不法連行された

 ある日の午前中、夫が電話をしてきて、「あなたが煉功していることは市の共産党委員会まで知られている。午後彼らはあなたと話したい」と言いました。私は「私もちょうと彼らと話したいから、来たかったら、来てください」と言いました。午後、市の婦人連合会から4人が来ました。彼らは「法輪功はX教で、煉功をしてはいけません」と言いました。私が「法輪功は素晴らしいです、いい人になるようと教えているから」と言ったら、2人が、「あなたは暇だったら麻雀をやればいいじゃないか」と言いました。私は「私は大法を修煉して麻雀を止めたのに、あなたたちはまた麻雀をやらせるつもりですか」と言いました。彼らは法輪功についてたくさん質問をしました。私は全部答えてあげました。彼らは「禁止は禁止です。煉功すればその責任を自分で負わなければならない」と言いました。私は「あなたは刀を私の首に載せても、私は修煉します」と言いました。彼らは黙って帰りました。

 2003年3月21日、私は同修と一緒に店でお客さんに真相を伝えていた時、真相を知らない人に密告されました。私の店に真相小冊子があるため、一人の同修は小冊子を全部持って行きました。その時、息子はまだ家で真相DVDの書き込み作業をやっていて、私は早速家に帰って、片付けました。しばらくすると、6、7人の警官にやってきて、私の家で、家財を差し押さえたり、写真を撮ったりしました。

 息子は「あなた達はなぜ母を連行するのですか? 母はとてもいい人ですよ」と言いました。私はその時、発正念をしなかったのです。彼らが戸棚からDVDの書き込み機械を見つけた時、息子は怖くなって、警官に跪いて「母を連行しないでください……」とお願いしました。

 私は派出所を連行され、手錠をかけられました。家には89歳の母と9歳の息子を残したままでした。私は断食断水をして、迫害に反対し始めました。

 翌日、派出所に人が来たら、私は大声で「法輪大法は素晴らしい!」と叫びました。警官は彼らの上司に「彼女はとても元気だよ」と言いました。

 3,留置場の善と悪

 24時間後、私は留置場に送られました。私は引き続き断食して抗議しました。その日の夜、私が煉功をした時、囚人に殴られました。私は煉功を続けましたが、彼女たちは私を殴り続けて、「まだ煉功するか」と言いました。私は「何を恐れるのか、頭が落ちても身体はまだ座禅している」[3]と答えました。彼女たちは私を殴ったり蹴ったりして、また私の体を踏みました。私は殴られ気を失いました。彼らは冷たい水を私にかけて、目を覚ませました。私はまた煉功しました。ある人は「もう彼女をほっときなさい。彼女の顔が変形してもまだ煉功しようとしている。彼女は死んでも煉功するでしょう」と言いました。一人の囚人は「あなたの顔の半分は真っ黒だよ」と教えてくれました。私は左目が殴られてなにも見えなくなり、十日後にようやく視力が回復しました。

 翌日の夜、犯人は私をベッドの下に押し込みました。私に煉功させないためでした。私の体中は傷だらけで、痛くて、呼吸すらできなくなって、彼女たちはやっと私を引っ張り出しました。ある日私が発正念をしていたとき、1人の14歳の小さな囚人が私の胸を激しく蹴りました。私は涙が出ました。犯人のボスはあの子供に、「彼女はもうあんなひどい状態だから、もうこれ以上暴行を振るってはいけない」と言いました。その時、他の囚人はこの子供を殴りました。今回、彼女は他の人に虐められたため、私の所に来て、「あなたの師父の経文を暗唱して、聞かせてください」と言いました。また真相の分かった囚人は、「法輪功を修煉する人はみんないい人ですよ。それでもこれほど殴られるのですね」と言いました。

 警官の中にも優しい人がいました。私が殴られた次の日の朝礼の時、ある警官は私の様子を見て、誰が殴ったかと聞きました。私は誰とは言わなかったのですが、警官は予想がついて、私を殴った2人の囚人に手錠と足かせをかけました。

 いつも私を陰で助けてくれた2人の囚人は、早くに「無罪で釈放」されました。彼女たちはそこを出るとき、嬉しくて私に抱きつきました。彼女たちの話では、彼女たちの罪だと懲役10年の判決が下されてもおかしくないと言います。しかし留置場に1年余りいただけで釈放されてしまいました。これはまさに「大法と大法弟子に優しくすれば、福の報いがある」その言葉の通りでした。

 4,「610」の陰険と悪辣さ

 留置場に来て5日目、国家安全局の人は私を車に乗せ、手錠と足かせをかけて、私を病院へ身体検査に連れてきました。彼らはわざとらしく「あなたを安全な所に送るから、今度は殴られることがないよ」と言いました。

 病院を出て、車は遠回りをして停車しました。私はここがどこかを見ようとしたら、警官は私の頭を思い切り抑えました。私は「法輪大法は素晴らしい!」と叫びました。彼らは私を暗い部屋に閉じ込めて、三つの手錠で私を椅子にかけました。

 私は彼らに大法の真相を話し、『心自明』を暗唱して聞かせました。彼らは「私たちはあなたより先にこれらの経文を見ていますよ。あなたは政治犯です」と言いました。私は「私は犯人ではありません。私はいい人です」と言いました。彼らは「○○さん、××さんが隣に拘束されています。この人、あの人をあなたは知っていますか」と聞きました。私は誰も知りませんと答えました。

 翌日午前5時、彼らは私に暴力を振るい始めました。私の頭を殴ったり蹴ったりして足で私の太ももを踏んだりしました。私は、「あなた達は勝手にしなさい、私は死んでも何も言いません」と言いました。彼らは「あなたは死にたいのですか? そう簡単にはいきませんよ。ゆっくり死なせるから。死んだら火葬して、自殺にすればいいの。私達は中央直属部門で、私はよく食べ、よく遊べるから」と言いました。彼らはライターで私の手の甲に火をつけました。2日間で、2回火をつけました。しかも、毎回時間が長かったのです。彼らは私があまり痛みを感じないと見て、「お前が仙人になったのを信じないぞ」と言いました。私が発正念をしているのをみて、彼らは血相を変えてまた私に暴行を振るいました。彼らは交代して私を殴りました。江沢民集団に飼われたこれらの殺人の手先を見て、本当に可哀想だと思いました。

 私を殴ったその日、彼らは出かけた時に人の車と接触して、1万元を弁償させられました。

 私はこの場所に3泊4日拘束され、一時たりとも目を閉じて休ませてもらえませんでした。この時、私はすでに断食断水をして10日にもなりました。4日目から、わたしはもう気が遠くなり、どれだけ発正念をして、どれだけ経文を暗唱したかも覚えていません。もう少しで意識不明になるほどでした。彼らは隣で私を誘導して、「あなたは彼らにたくさんのDVDを渡した」と言いました。私は口に任せて「一回だけです」と答えました。私は言い出した途端、突然「これは認めたと同じじゃありませんか」と気づきました。私は同修に申し訳ないと感じました、心の中では同修に許してもらいました。それは私が法をしっかり学んでいないため、過ちを犯したと思いました。師父にはさらに申し訳ないと思いました。

 彼らは私を留置場の入り口に運び出し、男性の囚人に私を女性監獄室に運ばせました。私は女性囚人が「わあ、怖い、死人みたい」と、びっくりした声をあげるのを聞きました。彼女たちも法輪功に対する迫害が、どれほど手段を選ばず、残忍残酷なのかを目撃しました。私の両足の太ももは全部真っ黒になり、いくつかの箇所は皮が裂け、傷口も開きました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/12/18/284138.html)
 
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