文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年12月11日】私は2000年に迫害に遭ってから、ほとんど集団学法に参加していませんでした。同修と学法グループを作ろうとしましたが、各種の人心に阻まれ、作ることができませんでした。そして、迫害を恐れる中で、「中士は道を聞いては 存するがごとく亡(うしな)うがごとし」のように、三つの事をしっかり行う大切な時間を無駄に過ごしてきました。
2013年、ある年配の同修から、「私たちの学法グループに参加しませんか」と誘われました。私は喜ぶと同時に、恐れる心も生じました。また、束縛されたくない気持ちも湧いてきて、遊べる時間を無くすのも嫌でしたから、いろいろな口実をつけて、集団学法に参加するのを避けていました。しかし、年配の同修は簡単に諦めず、一回一回電話をかけてきて、声をかけ続けてくれました。ついに、私は断れなくなって、仕方なく学法グループに参加しました。しまいには一人の同修が、「今嫌がっていても、きっと来ないと気が済まなくなりますよ」と、言いました。
集団学法する同修の家は大きくないのですが、とてもきれいに片付けられています。客間に師父の大きな写真が飾られており、両側に法輪の写真が並んでいます。私たちは客間の床に座って法を勉強します。みんな座布団1枚ずつ使いますが、私は3枚使いました。背中と壁の間に1枚、座るのに1枚、もう1枚は脚の下に敷いていました。時に4枚を一列に並べ、学法が始まるまで、その上に横たわって休みました。今振り返ってみても、恥ずかしくなりますが、当時私を笑う同修は一人もいませんでした。同修たちの包容に今も感謝しています。同修たちの包容があったからこそ、私は集団学法に戻ることができました。
学法の時、一人の同修は足を組んで学法しているのを見て、私は座禅して法を勉強するのに、疲れないかと聞きました。同修は「足を組まないより組んだほうが楽だと思うべきです」と答えました。またある日、この同修が法を読む番になると、自分の落ち着かない気持ちが、なぜだか静かに、穏やかになり、とても気持ちよく感じました。彼女の声がゆったりとしていて、とても穏やかで、強いエネルギーを帯びていました。そのエネルギーが私のマイナスの考えを解体し、リラックスさせてくれました。学法が終わると、私は「あなたが法を読むと、私はとても気持ちよく、穏やかになるのです」と彼女に言いました。その後のみんなの交流が、さらに私に受益させました。ある同修は「学法する時、体をまっすぐに保つべきです」と教えてくれました。もう一人の同修は「法を拝読する時、一文字一文字を心に入るようにすべきです。そうなれば法を得ることができます」と教えてくれました。ある日、私は同修が法を読む時、本当に一文字一文字が心の中に入ったように感じました。とても玄妙な感じでした。
しかし、私はいつも読み間違ったり、読み漏れたりして、厳粛に法を勉強することが、できていませんでした。同修たちに指摘され、私は体裁が悪くなり、嫌がる時もありました。特によく指摘してくれる同修が来ると、私は緊張し、なおさら間違ってしまいました。大法を捻じ曲げていなければいいだろうと考えていました。努力して間違わないように気をつけていても、たいした改善がありませんでした。するとある日、『轉法輪』を開くと、一文字、一文字が一人ひとりの座禅している佛様の姿かたちになっているのが見えました。『洪吟』の中に書かれている佛様と同じでした。その一人ひとりの佛様の胸に一文字ずつ書かれています。私はびっくりしました。それからは真剣に学法するようになり、読み間違ったり、法を勉強中にほかの話をしたりすることがなくなりました。
それに、法を勉強する前に、トイレを済ませ、手を洗ってから、まっすぐに姿勢を正し、足を組んで、一番純粋な気持ちで、一文字一文字を拝読するようにしました。「知っていますか? 今日、あなたが『洪吟』を読んだ時、一文字一文字が、鐘の音のように聞こえ、強いエネルギーを感じました」と、同修から言われました。ついに周りの同修も私からエネルギーを感じるようになりました。師父のご加護で、エネルギーが良くない物質を解体し、私を浄化しています。これはつまり誠心誠意真剣に、法を勉強してから受益したことです。
集団学法の中で、私はいろいろ悟るようになりました。同修それぞれの次元が異なり、法を拝読する時、放たれたエネルギーの大きさもみな違います。この正のエネルギーの場の中で皆受益し、正念を強められています。例えば、私は上の次元へ目指してまだ突破できていないところは、同修が法を拝読した時に放たれたエネルギーに助けられ、突破できるようになります。みんなで交流することも、同修たちの悟りが、私に受益させています。控えめの同修がいます。私の観察により、彼らは最もしっかり修煉できている人かもしれないと感じました。自己主張しない割りには、誰かに必要とされたとき、黙々と助けてくれています。名利は彼らにして霧のように薄いのです。
集団学法を通して、私は正念を増しています。多くの執着心も取り除かれ、良い人になることもできました。大法の中で、私は合格の大法弟子、真の大法弟子になれるよう努力し続けています。そして、他の人が間違っていると思うたびに、自分には包容力が足りないのではないか? まだまだ忍耐力を強めるべきではないのか? と内に向けて自分を探しています。それぞれの同修に、それぞれの輝くところがありますから、その良いところだけを見るように努めます。このすべてを与えてくださった師父に深く感謝いたします!
以上、個人の悟りでしたが、適切でないところがありましたら、ご指摘をお願いします。