師父の計り知れない慈悲の中で自分の使命を果たす
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文/ルーマニアの大法弟子

明慧日本2018年5月2日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 瞬く間に私は修煉に入って5年になりました。5年の間、衆生を救い済度する責任の重大さを少しずつ理解してきました。以下、自分の修煉体験を皆さまに報告したいと思います。

 怒りは、自分の天国を壊す

 修煉において、下記の1点を私は悟りました。つまり、自分の考えが法理にそぐわないとき、直ちにそれを捨てることです。たとえその考え方に一理があるように見えても、早く取り除かなければなりません。もしその考えを問題ないと思って受け入れたら、それはだんだんと心の中で膨張して、最後にその考え方に陥って抜け出せなくなります。残念ながら、私がそれを悟ったのは遅かったのです。

 師父は『轉法輪』に「あなたの身体のあらゆる信息やあらゆる霊体、あなたの細胞がみな功を伸ばすのですから、当然彼も功を伸ばします」[1]と説かれました。私の理解では、その法理は、良くない考え方や各種の執着心に当てても同じです。取り除かず、それを自分の本当の思想だと思ってしまうと、それはエネルギーを吸収してもっと除去し難くなります。そうなると、師父はどうやってあなたを助けることができるでしょうか。

 悪い考え方に対する放任に言及すると、私の最大の執着心は「感情」と言ってもよく、特に怒ることです。修煉者にとって感情は魔の役を演じています。「怒る」という感情は修煉者が除去すべきものだと分かっていながら、具体的な情況になると、怒ることは良くないが、時には正当性もあると思ってしまいます。そのように、私は心の中で魔性を放任していました。

 私は大紀元新聞社で働いており、文章の質に高い要求を持っています。そのため、文章に誤りが見つかったら私はとても怒り、特に新しい読者向けの文章の場合、その誤りは衆生の救い済度まで妨げると思っています。しかしある日、怒ることの破壊力について私はとても忘れ難い経験をして、教訓を学びました。ここで皆さんと分かち合って、もし同修たちの修煉に役に立つことができれば幸甚です。

 その日、私はある撮影担当の同僚と一緒にあるイベントを取材しました。現場に駆けつけて、イベントの主催者に事前に接触していないため、臨機応変に取材対象を探したりして、けっこう労力をかけました。取材を終え大紀元の事務所に帰り、私は精力的に取材原稿を仕上げました。編集者に渡すと、第1段落をもうちょっと手を加えてと言われました。そうすると、それまでの努力は水泡に帰するのではないかと思って、私はとても腹が立ったのです。その場で編集者と口論にならなかったのは、私が怒りを抑えたのではなくて、そのとき編集者がいなかったからです。私の怒りは1日中消えず、体内で燃えていました。夜、家に帰った後、自分が対応する天体範囲内の複数の空間が壊滅されたのを天目で見ました。そのときの辛い心境は言葉で表現できないものでした。怒りは自分の天体内の生命を全部消滅することができるのだと私は分かりました。

 師父は『轉法輪』に「主意識がしっかりせず、思想業に左右されたまま悪いことをする人もいますが、そうなるとその人はもうおしまいで、堕ちてしまいます。しかしほとんどの人は強い主観思想(主意識)を持って、それを排除し、それに対抗することができます。そうであれば、その人は済度できる人です。善悪の分別がつき、つまり悟性の良い人ですので、わたしの法身が手助けをして、そのような思想業の大部分を消去してあげるのです。このようなケースは比較的多く見られます」[1]と説かれました。

 怒ることの破壊性を天目で予見できたのは、幸いなことでした。私は自分にとてもがっかりして、泣いて師父に謝り、私の天体内の衆生の壊滅を阻止して下さるように師父にお願いをしました。その後、天目に映ったその光景は消えました。

 この教訓はとても痛ましいものでした。長い間、怒ることは正常なことだと私は思っていたので、怒りは私の体内で増えて蔓延した結果、私に理性を失わせたのです。

 先日、もう一つの出来事から私は再び教訓を学びました。その日、私はあるイベントの現場に取材準備をして、時はすでに夕方になり、私も少し疲れました。突然、ある人が私の耳に障ることを話しており、私の怒りは膨らみました。当然、自分は修煉者であり怒りを抑えなければならず、今のことは自分に対する試煉なので、自分のやるべきことは激高することではなく、内に向けて探すことだとすぐに思い付きました。しかしもう遅かったのです。私が怒りを消去する前に、「パン」と大きな音がしてビルの変圧器が爆発しました。それから停電して、当然、イベントは中止になりました。

 師父がもう一度私に怒ることの破壊力を見せて下さったのです。それから、怒りを制するように私はずっと努力しています。相手がミスを犯すとき、仕事に影響を出したとしても怒らないようにと、私はずっと自分に言い聞かせています。しっかり怒りを抑えることができたこともあり、抑えられなかったときもありますが、多く学法すれば、師父のご加持もあって、最終的に「怒り」という悪魔にきっと打ち勝つことができると私は信じています。そして、「怒り」という感情を放任することがどれほど危ないかを、同修たちに知ってもらいたいのです。

 恐怖心は死を招くかもしれない

 去年の秋、私は山に登りました。最初、山道の状況はまあまあ良くて、草が生えていました。私が引き続き歩いていくと、いつの間にか草が見えなくなって、路面を雪が覆いました。いずれにして私は歩き続けて、これから先の山道の状況が悪くなっていくはずはないだろうと思いました。それから、いつの間にか私は険しい谷間に来て、路面がはっきり見えなくなり、足元の積雪は溶けかけています。私が足を踏み出すと、雪は私の体重に堪えられず谷間に沿って滑り、私は転びかけました。私は恐怖を覚えました。

 その時、師父の言葉を思い出しました。「怖いと思うこと自体が、本当に面倒なことを招いてしまうかも知れません。なぜかと言いますと、怖くなれば恐怖心が生まれますが、それはほかでもない執着心ではないでしょうか? 執着心が現われれば、それを取り除かなければならないのではないでしょうか? 怖くなればなるほど、本当に病気にかかったような気がしますが、その心こそ取り除かなければならないものです。そこから教訓を学ぶことによって、あなたは恐怖心を根絶し、高まってくるのです」[1]

 そこで、恐れてはならないと私は自分に言い聞かせました。元の道に後退すると、きっと転びますので、私は山頂に向かって進みました。途中、何回も恐怖心が生じたのですが、私は直ちにそれを否定しました。山頂に到着すると、良い下山道が見つかりました。あの時、「もし先ほどあなたが恐れていれば、私たちはとっくにあなたの命を取ったのです」と、一つの声が私の耳元ではっきり言いました。

 内に向けて探す

 修煉者は、相手がしていることを見るのではなく、内に向けて自分の欠点を探すべきだと分かっていながら、同修の至らない部分を目にしたら、私はやはり腹が立ちます。過去の私は、とても厳しい目で周囲の同修を測っていました。ある日、それは修煉者のあるべき姿ではないと師父は私に教えられました。

 その日、帰宅の途中に私は頭を上げて、ある建物の大きい窓を通して、2人がじっと立っている光景を見ました。私は足を止めてその2人に視線を凝らしました。微動もしない2人は彫像でしょうか、本当の人間でしょうか、彼らは何をしているのか、もしテレビを見ているのなら、どうして相手と会話しないのかと推測して、私はこの2人を数分間観察しました。そしてそのとき、他人を見ることは自分の足どりを止めることになる、と私は悟りました。修煉する中で、他人のした事に目を向けるのではなくて、自分自身が勇猛精進することに注意力を集中すべきです。さもなければ時間を無駄にして、修煉が遅れると私は分かりました。それを悟らせてくださった師父に感謝します。

 大法の仕事をする中で妨害に遭うと、私は発正念だけをして内に向けて探さないときもあります。そこで、内に向けて探さなければならないことを私に悟らせた出来事が起きました。ある日の夜、仕事を終えて家近くまで帰ったとき、数匹の野良犬が私に向かって吠えました。少し怖くなり、私はすぐ発正念をしました。その情況は数日続き、ある日、野良犬はとても近くまで来て、私にぶつかりそうになり、噛まれるのではないかと私は心配しました。そのとき、野良犬はどうしてこうしているのか、きっとそれなりの原因があり、私は内に向けて探さなければならないと考えました。

 そう思った瞬間、犬はまだ吠え続けましたが、しかし尾をふって友好的な目で私を見ていました。次の瞬間、犬は吠える声を止めてよそに行きました。それから、一度も家の近くに現れたことがありません。何かに遭うときに発正念をして妨害を消去するだけでなく、内に向けて探すことも重要だと、そのとき私は分かりました。

 正念の力

 修煉を始めてから、最初にやった大法の仕事は街に法輪功の資料を配ることでした。しかし頭に雑念が走ったせいか、魔の妨害のせいか、通行人は誰も私の資料を受け取ってくれません。ある日、どうして私は発正念をしないのかという考えが浮かびました。私が発正念を始めると不思議なことに、ほとんどすべての通行人は資料を受け取ってくれ、私に感謝する人もいました。

 私は何回も正念の力を見たことがあります。その中で最も明らかな例は、イベント中にビデオ設備が故障したとき、同修たちが発正念をして故障を解決したことです。

 ある日、私とある年配の同修は一緒に真相を伝えるイベントに参加しました。そのときは昼過ぎで、通行人が少なくて、私たちの話を聞いてくれる人は少なかったのです。突然、雨が降って、とても寒くなりました。私と年配の同修は諦めて帰ろうと考えずに、木の下で雨宿りをしました。驚くことに街の通行人は足を止めて、私たちに話しかけてくれました。最後に、彼らは真相が分かって、「法輪功に対する迫害を早く止めよう」と署名をしてくれました。

 私と年配同修は雨に負けずに、寒さに負けずに活動を続けたとき、私たちの正念は高い次元の神を感動させたので、私たちにはより多くの衆生を救うことが許されたのだ、と私は思います。

 問題に遭うときは、自分の執着を取り除くべき

 私はとても寒さに弱いのです。しかし大紀元の事務所のある同僚は、外がどんなに寒いにも関わらず、冬場でも窓を開けます。寒さを感じるだけでなく、私が寒さに弱いと知りながら、彼女は相変わらずそうしている理由が理解できませんでした。何回彼女にお願いをしても効果がありません。ある日、「よし、怒らない方法で解決を試みよう」と私は決めました。つまり、寒くてもそのために心を悩ませないことです。私は本当に心性を守ることができて、心が静かになりました。

 ただ数分経ったとき、協調人が来て彼女に「もしずっと窓を開けっぱなしにするなら、ほかの部屋に移ってもらいます」と告げました。そのように、私自身の考え方が変わるにつれて、問題も解決できました。問題を解決してから心を変えるという順番ではなかったのです。

 結び

 ある日、座禅を組んでいるとき、天目で壮麗な景観を見ました。目の前に一面の空が広がり、無数の星がきらきら光って、明るくて美しいのです。その雄壮で美しい景観の前に、心性の摩擦と生じた悩みなどは、全く意味のないものになりました。文句を言ったり困難を恐れたりするより、修煉に専念してこそ、はじめて自分が所属するあの美しい世界に、私だけでなく、私の救うべき衆生、および私がやり遂げた使命と一緒に戻ることができる、と私は分かりました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 (2017年ヨーロッパ法会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/10/6/355091.html)
 
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