怨恨心を取り除いた体験
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年2月18日】私の右の乳房にしこりができ、2017年から「病業」という虚像が顕れました。当時、自分の修煉に多くの問題が存在していたことを感じました。その一つは、ネットショッピングにふけっていたことです。1年余りが過ぎても、身体は以前の健康な状態に戻りませんでした。

 最近、同修との交流を通じて、長期にわたり自分にある頑固な人心の一つである「怨恨心」が存在していることに、気付きました。その心はすでに私のあらゆる思惟を貫通していて融着し、私の言行を左右していたのでした。この心について、まず、私と舅のトラブルから話したいと思います。

 長年、主人の実家の人々との付き合いは私にとって、一番の気後れを感じることです。姑は早くに亡くなったため、夫の実家は以前からずっと夫の姉が家の采配を振っていました。彼女はとても気の強い人間で、穏やかに会話することが出来ず、話し相手と大きな声で言い争うケースが多いのです。小姑とその夫は利己的な人間で、舅は常に娘たちの言いなりになり、善し悪しの分別のつかない人達です。彼たちは舅の威光を笠に着て、私達夫婦をいつも困らせたりしていました。

 昨年の年末に私は夫の家族が原因で、あるとても厄介な出来事の巻き添えにされてしまいました。私はこの一件についていつまでも根を持ち、「もしかしたら、彼らに対して怨恨心を持っているのではないの?」と同修に聞かれました。「あるかもしれないわ、二十数年も蓄積してきた怨みのようなものかも?」と私は即答しました。

 二十数年間、夫の家族の理不尽な要求に対して、私は出来る限り従って彼らを満足させてきました。上辺では我慢していましたが、実際には、自分の心性を高めていませんでした。しかも、心の中で多くの怨恨な気持ちを抱き、彼らの顔も見たくなければ、彼らの事すらも思い出したくありませんでした。彼らの事はこの世で最も資質が劣っている人間だとずっと思っていました。

 そうして、同修に指摘されてからは時間さえあれば、私は夫の家族に対する全ての怨恨心を取り除こうと思い、考え方を改めました。そして、心の奥底にある全てのこの怨恨心を見つけては、取り除こうと決めました。同修達も外部の妨害を取り除く手伝いをしてくれました。数日後、私を困らせていたあの厄介な右の乳房のしこりがなくなり、解決されました。

 この厄介な出来事は半年もの間ずっと棚上げされていましたが、これですんなりと解決できて、本当に信じられませんでした。同修は「師父があなたが内に向けて探し、この怨恨心を取り除きたいその心を見られて、このトラブルを解消してくださったのだ」と話しました。今日、私はこの機会をお借りして、この怨恨心を改めて見直したいと思います。

 怨恨心は他人、あるいはある事に対する不平不満を感じる気持ちなのです。例えば、他人と接する際に、自分の利益が損なわれた時や自分の気分を害した時、あるいは自分の名誉が損なわれた時に生じたマイナスの気持ちです。その根源は「嫉妬心」なのです。

 それでは、この怨恨心は私の場合はどのように形成されたのでしょうか? 内在の要素から見てみますと、一方では自分の性格は内向的で、臆病で事なかれ主義です。悔しい思いをしても、ただひたすらに我慢するだけで、発散する発想がありません。しかし、心の中の憤りはいつまでも収まらず、そのことをいつまでも根に持ちます。他方では自分の常人の心は繁雑であり、思想が硬直していて、物事の上辺の是非や、公平か否かを判断することだけに絡まれて留まり、多くの場合は修煉者の視点からすると、俗世間の因縁関係を見抜くことが出来ていません。それゆえに、多くの怨念を生じたのです。

 外部要因から見ると私は中国共産党社会の環境に漬かり、中国共産党が意図的に市民の思想に注ぎ込んだ憎しみの理論に埋もれ、甚だしい場合は自分の行動はその憎しみの論理に支配され、知らず知らずのうちに憎しみの要素が植え付けられていたのです。

 個人的な見解では、微かな怨恨心は残念に思う気持ちですが、それよりも強い気持ちは不平不満な気持ちで、さらに強い気持ちは憎しみになるのです。不平不満な気持ちは自分、あるいは同修の間でよく見られますが、往々にしてあまり重要視されていません。言葉では現れませんが、言葉の行間のニュアンスから読み取ることが出来ます。例えば、「なぜ、あのような事をしたんだろう?」、「なぜ、私に相談しなかったんだろう?」等々です。

 「怨恨心」は多かれ少なかれ多くの同修が持っています。しかし、その心は自分の執着心に触れた相手が現れた時にしか気付きません。「強い怨恨心」はごくわずかな同修の言動にしか見られません。今までにたった一人の同修Aに、このような言動が顕れたのを見ました。彼女は自分が嫌っている同修Bの事を言及した時に激高して、甚だしい場合、出来る事なら同修Bは車に引かれ、あるいは、連行されて欲しいとまで思ったりします。であるならば、同修Aの言動は常人よりも劣っていると思いました。しかしなぜ、彼女の行ないが私の目の前に現れたのでしょうか? 私にも増悪と言う要素が隠されているのではないでしょうか。ただ表に現れていないだけではないでしょうか。

 個人修煉の角度から見れば、怨恨心が取り除かれない限り、正真正銘な良い人間とは言えません。上辺を取り繕うだけの善い行ないをしても、それはしょせん偽善にすぎません。

 大法弟子の全体修煉においても、同修の間の怨念は非常に強い殺傷力を持っています。同修Bに連行されることを望んだ同修Aは、逆に自分が邪悪に強制連行されました。同修Aにノイローゼ呼ばわりされていた同修Bは、後に鬱(うつ)にかかりました。なぜならば、それらの陰険で悪辣な言葉は大法弟子の口から発したもので、邪悪の大法弟子への迫害に助長する作用をもたらしました。同時に、これらの言葉を発した同修は、これによって自分に非常に大きな業力を造ってしまいました。怨み、憎しみはまるで1本の鋭利な剣のように大法弟子の全体を傷つけています。

 衆生を救い済度する角度から見て、怨恨心を取り除かなければ善の力は乏しくなり、大法の真実を伝える時にいくら言葉遣いが優しくて耳ざわりが良くても、また、内容の筋が通っていても、人の心を動かすことが出来ません。

 たとえ大法弟子が一層一層の天体から人間界へ下りていく輪廻の過程で、自分自身および同修との間で怨念が蓄積されていたとしても、大法が創り上げた生命として、救い済度されることを待ち望んでいる衆生の希望として、怨恨心は必ず取り除かなければなりません。怨恨心を取り除いてこそ、はじめて純潔な善い心を持ち、自分に、同修に、衆生に接することが出来ます!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/10/19/391398.html)
 
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