「病業」に対する浅薄な見解
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文/中国の大法弟子 何唐

  明慧日本20199月8日】自分の修煉状態を自ら見てみると、自分が足りないところがたくさんあるとわかりましたが、「病業」に対する認識があれば、自分は合格できていると思いました。そこで、一部の同修が病業に妨げられ、ひいては命を失ったことについては、心が本当に痛く感じましたので、この場をお借りして自分の見解を交流したいと思います。

私は修煉しようと決めてから数日後、体がだるく感じ、ふらふらしてのどが渇き、黄色の鼻水が止まりませんでした。しかも夜間寝ているときに汗をかき、一年半くらい前にかかった重病の症状と似ていて、一週間程続きました。しかし、私は最初から病院に行ったり、薬を飲んだりすることを一度も考えていませんでした。修煉をはじめる前に『轉法輪』を何度も読んでいました。本の中にこのようなことがはっきり説明してありましたので、私はとても素晴らしいと感じました。同修と交流したら、「汗をかくことは良いことですよ。師父があなたの体を浄化してくださったのです」と教えてくれました。

私はそれを聞いて、とても嬉しく感じました。その後、私は「良いスタートができた主な原因は、第一に、法を学ぶこと、第二に、同修と交流すること、第三に、病気を治す執着心がないことです」と思いました。私の当初の修煉を始める本心は正当ではありませんでしたが、病気を治すためでもありませんでした。

私は小さい頃、重い副鼻腔炎にかかったことを覚えています。修煉してからすべての症状が消えました。学法することにより、一層一層の病業を少しずつ取り除かないといけないとわかりました。その後、体に次々と反応が出て、ときには重く、例えば咳が出たり、下痢したりしていました。私の頭の中に、基本的に「病気」という概念がなく、徐々に内から探すことができました。あるとき、右腕が痛くてあげられなくなり、しかも一週間続きました。私は内に向けて探してみると、自分がネットでの議論に無駄に時間をかけてしまったことだと分かりました。

最初の頃、自分の業力か邪悪からの迫害か、はっきりわかりませんでした。しかし私は、「自分の業力であれば、師父に按排された道ですので、私はしっかり従わなければなりません。自分の業力でなければ、それは師父に按排されたことではないので、私は絶対に認めません」と思いました。その後私は、「師父に按排された業力を取り除くことであれば、他のことをやるのに影響が出ないはずです。もちろん自分が偽装を見抜かなければなりません。もし、他のことをやるのに影響が出たなら、基本的にそれは邪悪に迫害されたことになる」と悟りました。

邪悪に迫害されたことを、私達は根本的に否定しなければなりません。学法により、私はこのように理解しています、現在は宇宙で法を正す時期であり、私達は重大な責任を負う大法弟子として、師父はすでに私達の修煉の道を按排してくださったので、以前どれだけ負い目を背負ったにもかかわらず、今の時期に私はすべてを認めません。私は責任を負わないことではなく、師父が私の業力を受け取ってくださったので、私の命は師父からいただいたものですから、師父が按排してくださった道しか歩みません。以前の貸主が追いかけて来ても、私は認めません。何故なら、あれらのことはすべて私とは関係がなくなり、命だけではなく、私の一秒の時間でも、一円の金銭でも、すべて師父からいただいたものです。私が負った債務をいかに返すか、いつ返すか、師父が按排してくださるので、貰う度胸があるなら、貰いたいなら私の師父からもらいなさい、ということです。

実は常人社会も同じ道理です。例えば、一人の医者が罪を犯しました。警察官は医者を逮捕しに来ましたが、医者が患者に手術をしている最中であれば、警察官は手術を終えるまで待たなければなりません。直ちに手術室に突入して、医者を連れて行くようなことをしてはいけません。もちろん、仕事を終えてからは状況が別になりますので、犯した罪を償わなければならず、するべきことをしなければなりません。誰も特権を持つことは出来ません。しかし特殊の時期であれば、誰も妨害してならずず、妨害した者は犯罪者になります。

大法弟子として、我々ははっきりと自分達の使命がわからなければならず、堂々と根本的に迫害を否定し、ともに現在のすべてを大事にしなければならず、しっかり修煉し、師父が按排してくださった道をしっかりと歩まなければなりません!!

個人的な浅い認識ですので、自分の層次にも限られており、不適切な点がありましたら、同修達にご指摘をいただきます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/11/391299.html)
 
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