文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年7月31日】法輪大法を修煉してから10年間、難関に遭う度に心を落ち着かせて法を学べば、ほとんどの場合、修めなければならない執着心を見つけることができ、そのうえ、とても早く関門を突破することができました。しかし、最近、修煉の中で難関に遭い、法を学んで内に向けて探しても、ある次元に彷徨いながらずっと足踏みをして、前進することができません。法に則って考えても原因が分からず、とても戸惑っていました。
ある日、脳裏に師父のお言葉「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[1]が浮かびました。この難関を突破し前進するには、精進して法を多く学ぶ以外に方法はないと悟りました。
そこで、法を暗誦しながら通読する方法をとりました。毎日1講を学び、暗誦に関しては、量を決めず、1講の半分を暗誦する場合もあれば、数節を暗誦する場合もありました。しかし、法を学ぶとなると、妨害が非常に多く、いつも1時間かけても半分も学べず、気が散って眠たくなり、別の空間の良くない物質が私をひどく妨害しました。発正念してみましたが、顕著な効果はなく、時には、発正念をしているうちにうとうとしてしまいました。旧勢力は私の修煉の隙に乗じ、法を学ばせないように妨害を強めました。
法を学ぶことによって、私は何度も心性を守り切れなかったことに気づきました。更に深く探ってみれば、それは嫉妬心と安逸心によるものだったと分かりました。しかし、「この頑固な執着心がいくら強くても、法を学び続ければ必ず取り除くことができる」と固く信じました。
今、毎日法を2講学んでいます。どんなに忙しくても、決心さえすれば、法を学ぶ時間は必ずつくりだすことができます。その日に2講学び終えなければ、翌日は必ずその分を追加して学びます。つまり、集中して法を学ぶことを保証するほか、必ず学ぶ量も保証するようにしました。
法を通読する場合、スピードに執着せず、何かの法理を悟ったかどうかにも執着せず、ただ、集中して法を学ぶことができればいいと思いました。最初の頃は妨害がとても多く、時には集中できず、時には時間が足りないように感じ、そして、法を読みたくない気持ちもありました。
座って法を学ぶと、気が散ってしまいがちなので、立って法を学ぶことにしました。すると、妨害が少なくなり、集中もできるようになりました。しかし、長く立っていると疲れを感じ、座りたくなり、しかし、座ると眠たくなってまた気が散ってしまいました。それは安逸心だと分かり、この安逸心も取り除かなければならないと思いました。
1日2講を学ぶと決めた以上、堅持しなければならないと思いました。こうして、3日間続けると、気持ちが落ち着いてきて、嫉妬心もいつの間にか弱まりました。次にまた同様に嫉妬心の関門に遭遇した時、とても落ち着いて心性を守りきれました。しかも、苦心して心性を守ろうとしなくても、とても自然で穏やかに乗り越えることができました。
私は大法の威力と師父の慈悲深さを切実に感じました。師父は私が執着心を修めて取り除こうとする一念をご覧になり、私から嫉妬心と安逸心から生まれた大量の悪い物質を一掃してくださいました。私の空間場はまた清らかになりました。本当に師父がおっしゃった「修は己にありて、功は師にあり」[2]の通りでした。
弟子はこれからもっと学法を重視し、心を落ち着かせて法を学び、求めずに学び、多く学び続けていきたいと思います。
これは最近、私が修煉する過程で会得したことです。適切でないところがあれば、同修の皆さんのご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』