文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2019年7月29日】まず、はっきりと言っておきたいことは、法輪大法の弟子として、今まで私は「学法」と「執着」を軽々しく関連付けて考える勇気がありませんでした。今日、勇気を出して同修の皆さんと交流を試みたく、プラスの作用をもたらすことができれば幸いです。真に法を得て、ともに精進していきましょう。
個人的に思うには、学法することは執着ではなく、学法自体が執着ではありません。しかし、求める心を抱いて学法すれば執着になります。そして、学法する行為へのこだわりも執着だと思います。
皆さんもご存じのように、学法は師父が大法弟子に必ずしっかり実行するようにと要求される「三つのこと」の一つで、最重要視されるべきことであり、修煉者が圓満成就できる根本的な保障であり、大法修煉が大法弟子に課しているもっとも基本的な要求でもあり、真に修煉している者なら必ず備えるべきもっとも基本的な修煉の素養でもあります。その重要性は言うまでもなく、疑う余地もありません。ですので、師父は説法される度に、直接的にも間接的にも、大法弟子たちに必ず本を多く読み、法をよく学ぶようにと慈悲深く言い聞かせられました。
しかし、長い間、同修間で私はいくつかの現象に気づきました。数多くの同修には、多かれ少なかれこの方面のやり方と考え方が存在しています。ここでは特定の同修をとがめたり、または、誰かと是非を言い正したいのではなく、ただ同修の皆さんとこの現象について交流し、ともに精進し、ともに向上できることを図りたいのです。
家が集団学法の拠点になっている同修がいます。毎回、私たちが学法しに行くと、彼女は必ず笑顔で迎え、暖かいもてなしをしてくれて、心から滲み出るような喜びが終始顔に出ています。彼女自身も学法が大好きだと言い、学法のためであれ、ほかの用件であれ、私たちの来訪をいとわずに歓迎してくれています。今まで、この同修の集団学法に対する熱意と積極性に私は感服していました。どんな状況下でも、学法をし出すと彼女はすぐに元気になります。これは同修が精進していることや、師と法を信じていることの表れだと考え、師父のお話に従うことができる大法弟子だと思っていました。
しかし、理解し難いことに、すでに数年にもなりますが、彼女のところにはトラブルが絶えず、同修自身も修煉に非常に疲れており、時々茫然となって修めれば修めるほど、どう修めるべきか分からなくなったと言っています。学法を始めるとすぐに元気になりますが、本を置いて集団学法の環境から離れると、すぐに常人に近い状態に戻ってしまいます。この状態はかなり長い間続いており、今でもさほど変化はなく、改善が見られません。
グループ内でも、この問題についての交流が度々ありました。この話題に入るや否や、当の本人はいかにも、どんな法理もはっきり分かっているようにペラペラと喋り出して、「先ほどの師父の説法はまさに『私』へのご教示です」とも言いました。しかし、具体的なことに遭うと、依然人心が湧き出て、またダメになってしまいます。常人の中での修煉過程において、依頼心が非常に強い彼女を「助ける」ために、多くの同修は大量の時間と精力を費やさざるを得ませんでした。時間が長引くにつれて、同修たちも困惑に陥りました。指摘してあげた人心の数々は一つも消えていなかったからです。同修たちも、該当する同修も「内に向けて探す」ことをしましたが、問題は依然として存在し、繰り返し現れて来ます。なぜでしょうか?
誰もが師父の仰った「求めずとも自ずと得る」[1] という法理を知っています。今日、私はやっと少し理解できた気がします。同修の不安定な修煉状態をもたらした原因はもちろん様々ですが、そのうちの肝心な一つが学法への「執着」だと私は思います。そうでなければ、その同修はなぜこれほどまでに、集団学法の形式にこだわり熱心で、なぜこれほど集団学法の形式や同修たちによる助けに頼るのでしょうか?
何よりもこのような同修は、往々にして問題を解決するために法を学び修煉しています。身体に不調があればすぐに学法や煉功、発正念を行ない、修煉中のトラブルに遭えば、旧勢力の妨害だと考えて早速学法や発正念に取り掛かり、自らの力では限度があるので、同修たちと一緒に学法し、発正念すればもっと良いと考えています。しかし、これらのことはそもそも自分で解決、または実行できることです。「ああ、私には師父がいらっしゃり、将来きっと圓満成就できる。しかし、私の子供たちはどうしよう? 彼らは大きな縁があって私と家族になって、私が去れば彼らはどうなるのか? やはり彼らにも法を学ばせて修煉させよう。将来たとえ行く(圓満成就)にしても一緒に行かなければならず、誰一人取り残されてはいけない」と考えています。
パッと聞くと、理に叶う話で間違いではないと感じるでしょう! しかしこれらの考えや、やり方の背後にはあまりにも多くの人心があり、情が重すぎます! その結果、大人に逆らえない子供は形式上本を読み、法を学びますが、法が本当に心に入ったかどうかも分からず、むりやり皆について「法を読んでいる」だけかもしれません。ひいては子供は学法という行為への反感を覚えてしまい、これでは逆効果ではありませんか? むりやり人を引っ張って、強制的に修煉させることってあり得ますか? 子供に修煉の環境と条件を整えてあげて、人心と情を放下して自然に任せ、機縁が来れば、子供は自然と本心から修煉に入って来ます。こうすれば、自然に事が運ばれることになるでしょう。
深く掘り下げていくと、学法の背後にまだ多くの人心があります。
一部の同修は正法の進展について行くことができず、それによって圓滿成就できないと心配していますが、これが個人の「圓滿成就への執着」の表れでしょう。
また、多くの同修は法を学ぶことに熱心ではなく、学法の形式が大好きなのです。賑やかな集団学法の中で、ついでに同修に生活上の問題を解決してもらうことも出来ると考えています。常人である親戚や友人に頼めば借りができてしまいますが、同修に言えばこの心配はいりません。「修煉者だから、みな他人のために物事を考え、名や報酬を求めないので、借りなどの精神的負担を負う必要はない」と思っています。ご覧の通り、この考えには重い同修への情と依頼心が存在しており、真に100パーセント師と法を信じることが出来ていません。
次に、常人社会にいればどうしてもあれこれの用事に絡まれて、三つのことを全部またはしっかり行なうことができない同修がいて、限られた時間の中で学法ばかりをするのです。「精進しているとは言えないが、人並みにできている」と思うのは、ごまかしではありませんか? また、「自宅で学法すれば安全で心地良く、大きな問題やトラブルに遭うこともない。しかし、真相資料を配りに、または人を救うために法輪功の真相を伝えに外に出れば、どんなに危険だろうか!」と思うのは、安逸心や恐れる心ではありませんか? この類の考えは他にもあります。
さらに考えてみましょう。一部の人は法を学んでも法を得ることができず、向上もできない原因は何でしょうか? それは学法の形式だけにこだわり、心性の向上を疎かにし、着実に自分自身を修めなければならないことを認識できず、この執着の背後にある様々な人心を注意深く取り除いていくことをしなかったからです。これほど多くの人心を抱きながら「学法」していては、大法の内涵が顕現されることはあり得るでしょうか? 法理の顕現がなければ、人為的に何かを「悟る」ことは可能でしょうか? 法理を悟ることが出来なければ、どのように昇華し、向上していくのでしょうか? 昇華し、向上していくことが出来なければ、常人のトラブルに巻き込まれて、いくらもがいても抜け出すことが出来ないでしょう。
宝の本である『轉法輪』を手に取り学法し始めたら、どんな人心も消えてなくなり、世俗の一切を忘れることが出来ると感じる人もいれば、集団学法の場に来て同修に会い、学法し始めたらすぐ元気になると感じる人もいます。本当にそうであれば、私たちは感謝することを知るべきです。なぜなら、それは師尊の偉大さと無限の法力および威徳の表れであり、すなわち「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」[2] からです。大法弟子として、どうしてこれが自分の修煉状態の表れだと言えるでしょうか? それに、私たちは常人の中で修煉しているので、突然やってくる関や試練は、あなたが大法の本を開くのを待ったり、同修たちがあなたの周囲に集まってから試練や妨害を始めるのはあり得るでしょうか? 修煉は自分自身にかかっており、いつまでも大法に求め、同修に頼って、いいのでしょうか? 杖を手放す度に倒れてしまってはどうするのでしょうか? それが真の修煉、着実な修煉と言えるでしょうか?
学法に関して、師父はこのようにおっしゃっています。
「ご存知のように、どのような心理状態で法を読めば、法理を読み取ることができるのでしょうか? これは、私が言わなくても皆さんが分かっていることです。目は法を見ていても、考えが法の上に無ければ、皆さん考えてみてください、それは読んでも無駄ではありませんか? 誰のために読むのでしょうか? 自分は学んでいないでしょう? 本当に自分自身が功を得るようにと私は皆さんに教えたのではありませんか? もし法を学ぶときに考えが法になければ、誰のために法を学ぶのでしょうか? 皆さんを咎めているのではなく、このことが非常に重要だと皆さんに教えています。ですから、いくら忙しくても、法を学ぶときには、如何なる考えも放下し、他に何も考えずにただ法を学ぶべきです。あなたが法を学んでいる中で、考えている問題が全部解決されたかもしれません。なぜなら、全ての字の背後に皆佛道神がいて、あなたが何を解決しようとしているのか、今何を急いでやろうとしているのか、彼らには分からないことがあり得るでしょうか? それなら、彼らはあなたに教えないのでしょうか? ただし、必ず求める心を抱かずに法を学ばなければなりません。皆さんはとっくにこのことが分かっています。問題を解決しようとする執着の心を抱いて法を学んではならず、落ち着いて読めば、修めた効果はきっと非常に素晴らしいものです。ですから、法を学ぶ際、形式に拘らず、必ず心を放下して読み、本当に学び、心がここにあらずとなってはいけません。注意力が分散してしまえば、無駄になります。他の面から言えば、もし法を学ぶときに思いが法になければ、一つの形式の問題であるだけではなく、実は法を学ぶ者が法に対しても尊敬していないことになり、それで法が表れてくることがあるのでしょうか? この点から言えば、私が思うには、必ず心を放下して法を学び、注意すべきは忙しい情況でも法を学ぶときには考えを落ち着かせることです」[3]
真に法輪大法を修煉する弟子として、師父のお言葉に耳を傾けて本を多く読み、法をよく学ぶべきです。これは間違いのないことです。しかし、ただ単に本を読んだり、暗唱したり、転写したり、または集団での学法や交流への参加といった形式的なことを精進だと見なし、自分が正法の進展に遅れていないと考えて、これらのことを修煉そのものだと思ってしまえば、大間違いです。正法時期において、大法弟子は「三つのこと」のどれをも漏れなく行なって初めて、勇猛邁進に精進していると言えるのです!!
学法の際、私たちは本当に自問すべきです! 「なぜ学法するのか? 何のために学法するのか? どう学法すべきか?」。これは簡単な問題ではなく、学法しても法を得ることができるかどうか、修煉しても圓満成就できるかどうかの鍵となるところだからです。
個人の次元での悟りですが、学法への執着の背後にも、そして、多くの人心の背後にも、個人の圓満成就に対する強い執着が存在していると思います。これは根っ子にある問題で、特に注意すべきことではないでしょうか。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
[2] 李洪志師父著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「米国フロリダ州法会での説法」