文/フランスの大法弟子
【明慧日本2019年7月25日】どうして私は明慧のプロジェクトに入ったのでしょうか? 私にとってこれは何を意味しているのでしょうか? なぜ私はこのプロジェクトに投入するのでしょうか? これは私の修煉と何の関係があるのでしょうか?
ある編集者が私に「フランス語明慧の翻訳に参加したいのですか?」と聞いてきました。当時、私は明慧の対外的な情報窓口としての重要な意義に、はっきりと気づいていませんでした。私は同修に「私の翻訳レベルではやっていけません」と言いましたが、同修は「修煉上でしっかりしている同修の参加が必要なんです」と言いました。私は「この点では、まあ、まあいいでしょう」と思いました。私は何年も間大法を修煉しており、毎日学法し煉功することが基本であり、法会に参加してからは法に基づいてさらに力強くなりました。しかし、周りが常人の家庭環境の中で修煉しているので、自分が希望しているような精進は全くできず、修煉者の基準で自分に要求することは自分には本当にできないといつも考えていました。それでも結局、私は同意してやってみることにしました。
しかし、すぐに「私にできるのか?」と疑い始めました。メディアのプロジェクトで文章に潤色(じゅんしょく:うわべや表現を面白くつくろい飾ること)を加える仕事を行なった後、その仕事は私には少し合わないと感じたので、作業を続けませんでした。ですから、明慧の仕事をする時間を持つことが出来ました。しかし、パソコンの前で長時間タイプを打たなければならないことを考えると、そんなに嬉しくはありませんでした。時間的にも問題がありました。私の生活は規則正しく、知識を豊富にし、いかに創作するかという仕事において、一定の技量を発揮するのに毎日時間がかかります。
そして周りの修煉者、あるいは修煉していない人はみな「誰が明慧を見るのですか?」とか、「国際的には英文でなければダメじゃないのですか?」と言いました。さらに何百編もの祝賀文章がありました。これは師父が要求なさっていることであり、なぜ祝賀文章をすべて翻訳しなければならないのかを、本当に明白にわからなければなりませんでした。
つぎに、実際の作業でぶつかった問題は、どのように文章の様式を設定するのかや、また仕事を成し遂げるために行なわなければならない各種の要求など、これらは私にとって越えなければならない障碍でした。しかし他の人のアドバイスを聞いたり見たりした後、私は少しずつ抵抗を捨て、他の思考ロジックから問題を考えることが出来るようになりました。
翻訳を始めた時から、パソコン上で修煉者を見て私は感動しました。最も悲しいのは迫害されて亡くなった修煉者の長いリストを見ることですが、だんだんとそれらの名前が私が触れることができる生命に変わり、そのすべての生命が迫害されて奪われた生命でした。頭の中の片隅にいつも「私たちは誰に見てもらうために書いているのか?」という自問がありました。始めはこれが歴史の証拠固めのために記録を残しているのだと思いました。今ではその中に参加して真相を掲げるべきだということがわかり、全力を尽くしてこの偉大な工程に投入するのは、迫害を受けた人たちのため、人々に真相を伝える全世界の大法弟子のためであることがわかりました。
協調人が毎日翻訳前に『轉法輪』を一講学ぶように要求を出す時、この要求に達するのは難しいと感じました。なぜなら、たくさん寝たかったからです。しかしこれが「私はどのようにこの仕事に対処すればいいのか?」という私の考えを引き起こしました。私はまじめに準備したでしょうか? していませんでした。仕事を終わらせ、終わった後に楽な感じがあるような気がしました。私は「何が最も重要なのか? ノルマをこなせたのか? あるいは自分が翻訳したものを本当に理解できるのか? なぜ私はこれらを翻訳しなければならないのか? 答えは訓練書にはありません」と自問しました。答えは研修資料の中にはなく、なぜなら、それは修煉過程だということは明らかであり、仕事の前にいかにしっかり準備をするかが、とても重要であるということです。
現在では、仕事を開始する前に自分の気持ちを正すことができ、まじめにこのプロジェクトに応対し、重視し、『轉法輪』を一講あるいは師父の経文を学びます。さまざまな生活のことを様々な仕事の準備の後に置くことができますが、当然のことながら、家族との関係をしっかり築くことも無視できません。なぜなら、それも私の修煉の一部分であり、人の事を優先に考えなければならず、日常生活の中で自分をしっかり修めなければならないからです。
翻訳量が増える問題で、私はずっと努力し、時には体がとても耐えられなくなってから、やっとキーボードから離れます。何が極限なのでしょうか? みな自分の状況によってバランスを探し、私の場合は、心性を向上させる問題がそうです。みな自分の修煉に対して責任を負わなければならず、他の大法弟子の修煉体験を読んだ後、同修たちの勇気で私は励まされ、常人のさまざまな執着を洗い流し、明慧ネットのためにさらにしっかりと仕事をし、修煉の中でさらに精進します。
常人の生活の中で私は何を放棄することができるのか?
私は常人の集まりを放棄し、日常のことを放棄し、明慧ネットの仕事を行ないます。表面上は生活の中の調和が乱されましたが、師父が説かれた「失わなければ得られず」 [1] のようでしたが、別の境地では調和を感じられました。自分が人の機嫌をとりたがっていることに気づき、対立を恐れることは私を妨害し、大法のプロジェクトをさらに多く行なうための障碍になります。
私はさらにすべての時間を修煉に充てたいと思います。私と一緒に生活している人の感じ方を考慮しなければならず、修煉者の活動に参加できないことに遭った時、心がつらくなります。まさにこの時私の心性は試され、これも真相を伝える活動の中で「真相を伝える活動に参加すれば、自分は恩恵を受ける」という自我の角度から、私が行なった選択に対して、恨みを生じずにいられるかどうかを見るのです。しかし、一方で私はさらに確固としなければならず、情に影響を及ぼされてはならず、さもなければ精進できません。
文章を翻訳する時は修煉者と共にいるようである
修煉体験を翻訳する時、私は修煉者たちの心の内側に入っていきます。それらの文字は同修と同じ法を修めており、同修が書いたものです。そこには、師父を100パーセント固く信じていることが現れており、それらの文字が生き生きと現れてきます。同修の修煉体験は私を目覚めさせており、時には鏡のように内に向けて探させ、私が気付かない執着を照らし出し、まだ放下していないものに対して、深く考えさせます。
さらけ出された執着
それによって私が考えたのは「プロジェクトの要求に基づいて、何度も夜に集団学法する自分にとって何が障害なのか?」ということでした。私が気付いたのは「機嫌を損ねる夫を恐れ、彼は私が付き添うことを希望しており、さらに彼は以前、何度も非難をにおわせる言葉を含む本を読んでいたからだ」ということです。中国の大法弟子を考え、中国の大法弟子たちは法輪功の書籍と共に生命の危険に直面しており、私のこれくらいの困難はどうということはありません。トラブルが起こることを恐れる執着を放下し、正念を確固としました。師父のご加護により、集団学法の時は自分一人で集団学法の部屋に行くべきだと決めました。この決定をした後、確かに問題は私のところにあり、トラブルを恐れる執着を放下した後、すべてが順調に解決し、さらに夫が集団学法に対してより理解してくれました。
師父が私たちにアドバイスしてくださった「人間は一旦修煉の道を歩み出せば、その後の一生に偶然な事は存在しなくなります」 [2] のようです。
明慧の仕事も偶然の中にあるのではなく、私がこの仕事を行なう目的を考えた時、常人の観点で「仕事は目に見える結果がなければならない」に執着していることに私は気づきました。読まれた文章や推薦された文章の中に、私の価値感が反映されるのです。最近『轉法輪』第二講で師父が説かれた「求めるということの問題」 [1] を拝読した時、自分のさまざまな曲がった考えに気づき、それ以来、私が翻訳した文章が読まれようと、明慧ネットにずっと貯め込まれていようと、私は結果に執着せず、何も望まなくなりました。
最後に、プロジェクト内の同修と全世界の同修に感謝し、同修の皆さんの修煉体験を通じて、私は修煉の上でも目覚め、自分の執着を見つけ出しました。師父が明慧のプロジェクトにおいて、このような修煉の機会を与えてくださったことに、深く感謝申し上げます。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『米国法会での説法』「ニューヨーク座談会での説法」
(明慧20周年法会の交流文章より抜粋、 編集)