明慧法会|修煉の機縁と明慧ネットの仕事に感謝
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文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2019年7月15日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 交流文を書くことは、自分にとって困難であるとずっと思っていました。なぜなら、私には深刻な体得があまり多くなく、また、大きな関と難を克服したこともないからです。私の修煉はずっと静かで、たいした波風はありませんでした。毎日の修煉の中で奇跡が徐々に現れ、宇宙大法に対する信念を固めていきました。

 私はとても簡単に修煉を始めました。しかしできるならば、私が初めたばかりのような修煉をしないでください! 多くの同修が大法を修煉し始めて、すぐに大法修煉の精髄がわかりましたが、私は大法のへりで1年近く迷っていました。何が修煉なのかはわかりますが、まだ真の修煉を始める決心がついていませんでした。これはまた私の小さい頃からの成長過程で、キリスト教の影響を受けたことと関係があります。幼い頃から青年と成年の初期の頃まで敬虔なキリスト教徒でしたが、法輪功9日間講習会に参加し始めて、本当の精神生活に対して、自分がさっぱりわかっていないことに初めて気づきました。私はキリストが説く話を信じていましたが、良い人間になりながらも、精神的に成長あるいは発展もしませんでした。この9日間講習会に参加して私は呼び覚まされ、自分の心性の向上を重視し始めなければならないことに気が付きました。しかしすでに骨の髄まで深く入り込むほど、知り尽くしたキリスト教から離れ、他の修煉法門に転向しなければならないことを考えた時、私は怯えました。これは私にとって大きな難でした。

 師父は「ほぼ全ての大法弟子は当時法を容易く得たのではありません。誰かが扉を遮ってあなたが入ってこないようにしているということを言っているのではありません。多くの場合は、心性の試練に現れており、あなたの心がどのように動くかを見ています。法を得るかどうかの問題に対して、あなたの心がどのように動くか、どのように対処するのかを見ています」[1] と説かれました。

 私は、自分の修煉に対して本当に責任を負うことが、どれほど重要であるかを認識しました。これは師父の法の中ではっきりと説かれています。宇宙の大法に照らして、どのように真に自分を修めるのかについて、師父は私たちに教えてくださっています。そして私はそれをやり遂げたいのです。

 師父は「大法は無辺であり、すべてが心の修煉にかかっています。『師は入口まで導くが、修行は各自にあり』と言われているように、すべてあなた自身がどのように修煉するかによります。修煉できるかできないかということは、あなた自身が忍耐することができるかどうか、代償を支払うことができるかどうか、苦しみに耐えられるかどうかによって決まります。いかなる困難にも阻はばまれないほどの固い決意をもっていれば、何の問題もないでしょう」[2] と説かれました。

 毎日私は修煉しました。学法を含め、自分を「真・善・忍」の中に溶けこませるよう努力し、さらにすべての環境の中で内に向けて探しました。

 師父は私たちにアドバイスをしてくださり、私たちの修煉の目的は必ず清らかでなければならないのです。私は常に『精進要旨』「大法は利用されてはならない」の法をもって、自分自身に照らし合わせています。以前、この法を読んだ時に気分が悪くなることがありましたが、今は師父のご慈悲にとても感謝しています。

 明慧に出会い、明慧チームの一員になったことに感謝する

 私が生活している地区の周囲にはほとんど同修がいないために、ほとんどの同修と接触したことがなく、他の大法のプロジェクトに参加する機会もありませんでした。ですから1、2年修煉した後、明慧として翻訳文章を書き直す機会に出会った時に、本当に心から喜びました。これは自分の暇な時間に、大法を実証するために仕事をする機会でした。初めから、ウェブサイトの仕事に大量の時間と精力を費やし、さらにしっかり行なうのも容易ではなく、同時に自分たちの常人の仕事もしっかり行なわなければならなかったので、実際、長年の生活を過ごすうちに、WEBサイトに投入する仕事が主導になりました。

 師父は「いずれにせよ、明慧ネットが今日まで歩んできたことは本当に素晴らしいことです。果たした役割から言えば、力強く邪悪の迫害を暴露し、特にここ数年、迫害が始まってから大法弟子の修煉状態の実情を適時に報道し、同時に学習者と学習者との間の連携の役割を果たしました。中国大陸にせよ、大陸以外の地区にせよ、どの地区にいても学習者は明慧ネットを通じて交流を行なうことができ、大法弟子は修煉の中でこの窓口があることで、互いに大法弟子の全体の修煉状況をいち早く知ることができ、間接的に相互交流の役割を果たしました。これはとても良いことです」[3] と説かれました。

 このチームのメンバーになれたことを、私がどれほど大切にしているかを表すのはとても難しいです。私たちの任務は欧米諸国の読者が、中国からあるいは世界中の他の地区から寄せられる同修たちの文章を読むことが出来るようにすることです。私は謙虚にこのプロジェクトに対処し、同時に私にとってとても大きな光栄でもあります。特に私が修煉で前進できずに足踏みする時、自分がこの仕事を行なう必要性を強く感じ、1編また1編と同修の交流文を読み向上する手がかりを得て、それによって修煉の上で私は先頭に追いついていきました。

 明慧サイトの仕事に参加することは大法のための機会であり、同修はさらに常人にサービスを提供し、その中の責任は重大です。なぜなら私たちの仕事の態度は、読者が交流文を読みメッセージを伝えることに影響があると信じているからで、特に修煉していない常人にも影響が出てきます。私はできるだけ尊敬の気持ちをもってすべての文章に対処し、同時に、私が編集するすべての文章は、大法と大法弟子に対する読者の第一印象であるかもしれないということを忘れずにいます。

 この数年のドイツ語明慧の仕事で、私は絶えず研ぎ澄まされています。私の角は磨き落されました。私は今はもう以前のようになることはありません。以前はいつもチームの他のメンバーと意見がすれ違い、自分の情緒をコントロールできず、怒りに満ちた多くの電子メールを連続で送りました。今はもう怒らず、さらにムカムカしないように注意しています。もしムカムカし始めたら、それは内に向けて探す時だといつも思っています。

 私はいつもチームのメンバーの努力に感激し、その揺るぎなさと修煉上の成熟さに感激しています。同時に、明慧のすべての同修の辛苦をなめ尽くすような作業量と、多くの時間や体力、諸々の費やしにも感激しています。これは協調人を含めて文章を書くすべての同修、翻訳担当の同修、文章を手直しする同修、編集とさらにIT責任者の同修の全員の関わりが発揮されて、初めて成し遂げることが出来ます。すべての作業を合わせて初めてこのプロジェクトの目的が可能になり、異なる地区の同修が互いに修煉体験を交流することが出来るようになり、同時に厳しい迫害を記録できるのです。毎回ウェブサイトに同修が各地で真相を伝え、法を伝えた文章が掲載される度に、私は嬉しくなります。世界各地の異なる環境にいる同修たちを私は敬います。

 私たちのチームの多くのメンバーが大きな魔難と損失を経験しました。メンバーたちの魔難とチームの損失に心が痛みますが、これが大法を堅く信じる私の心を動揺させたことはありません。

 さらに多くの出来事で向上する

 私の性格と物事のやり方は一般的に比較的遅く、比較的穏やかです。これには一定のメリットがありますが、自慢が生じるかもしれません。修煉者として、自分の一思一念にいつも注意するよう努力し、自分の一思一念が「真・善・忍」の一定の次元における要求に符合するように確保します。これは法を実証する仕事を行なうことと同修との関係にとってとても重要で、同時に自分の仕事と生活にとっても互いに密接な関係にあります。異なる環境の中で、時にはある出来事の後になってから気が付き「なぜこのことがあったのか」と自分に注意を与えます。「その出来事の中でなぜこの人はこのような行為をするのか?」と考えます。大部分の状況下では穏やかで、友人や見ず知らずの人、あるいは路上で軽率に車を運転するドライバーに対しても穏やかですが、しかし時には、家族のいくつかの行為のために無性に腹が立つことがあります。私は内に向けて探すように努力し、何が原因でそれらが引き起こされたのかを見て、さらに自分の「情」を修煉して取り除きます。しかし時には、「嫉妬心」が災いし、さらに「憎しみ」が生じてしまいます。このような方法で自分を修めるしかなく、それで初めて本当に修煉者の基準を満たす「忍」に符合することができます。

 私はいつも「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[4] という師父の法を思い出します。

 またある状況で私は自分を突破し、修煉についていかなければなりません。その一つは煉功です。私は容易に他の人のために行なうことができます。しかし、もしある出来事について、自分がやらなければならないことではないと感じる時、あるいはある出来事について行なっても、他の人の助けにならないと感じた時、行なうのが難しくなります。この考え方が正しくないと心の中でわかっており、さらに確かに毎日非常に忙しいのですが、自分にはまだ「怠惰」と「安逸」を求める執着があることもはっきりしています。この方面で突破しなければならないと決心し、それらの執着を取り除き、修煉者が行なうべきすべてのことをしっかりと行ないます。

 同時に人に面と向かって真相を伝えたくない執着についても、自分を突破しなければなりません。すべての人を尊重し大切にしていますが、私自身の性格は内向的で、時には他の信仰を持つ人が、大法を理解しないかもしれないことを心配することがあります。内に向けて探し、これはやはり「安逸」に執着して、「メンツ」を重んじているのだと気づきました。これらは私が完全に放棄すべき執着です。最近一時期、同修と一緒に政府の公務員に大法と迫害の真相について伝え始め、この経験は、人に面と向かって真相を伝えたくない執着を突破する助けになりました。

 全世界から届く同修の皆さんの熱意に、私は大変感激しています。同修の皆さんとの交流で、何が真の修煉なのかがわかりました。修煉の道でゆっくりと成長する過程で、師父と大法に対する尊敬と感謝の気持ちを言葉には言い表すことができません。修煉において、さらに精進しなければならないとわかり、そのように行なわなければならいと新たに決心しました。

 ありがとうございます、合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『米国中部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」

 (明慧20周年法会の交流文章より抜粋、 編集)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/6/3/387641.html)
 
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