明慧法会|明慧プロジェクトチームと共に成長する
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2019年6月28日】

 尊敬する師父、こんにちは、同修の皆さん、こんにちは!

 私は1998年に修煉を始めました。北京紫竹院公園で大勢の人が一緒に煉功している情景が目に止まり、今でもそれをはっきりと覚えています。

 修煉を始めたばかりの大学の卒業生として、地元の学法グループに加入し、同修たちと弘法し、講座を開き、中国領事館の前で平和的に請願し、大小さまざまなパレードと集会に参加してきました。その後、地元の明慧の協調人が電話をかけてきて、私は明慧編集グループに加入して15年が過ぎ、今では私も中年になり、海外に来てからのこの20年間は、師父に従って海外で法を実証した20年間でした。最大の体得は天が崩壊し、地が陥没するほど追い詰められ落ち込んだとしても、心は平静に「師がいて、法もあるのに、何を恐れるのですか?」[1] という師父のお言葉を繰り返し、繰り返し暗唱し、それについて考えていました。

 師父は「もし気にせず、気にかけなければ、緑の山さえあれば、薪がなくなる心配はなく、師がいて、法もあるのに、何を恐れるのですか? 無視すればよいのです! 放下すれば、関は小さくなり、あなたは変って大きくなり、一歩だけで乗り越えてしまいます。その難は何程のものでもありません。必ずそうなるのです」[1] と説かれました。

 大紀元から明慧へ移る

 明慧に加入し始めた当初、私はまだ大紀元の誌面の編集長だったので、頭の中では大紀元の考え方と書き方がまだあり、明慧に移ったばかりの時は協調人に指摘されていました。しかしその当時は受け入れられず、最初の反応は「それならやめます、他にもやらなければならない多くのプロジェクトがありますから」というものでした。私は天目が閉じた状態で修煉しており、他の空間は何も見えず何も感じず、またその時の私は腹を立ててやる気が起きず、階段を下りて煉功しに行きました。第二式の功法を煉功した時に、すぐに腕の間で法輪がゆっくりと回転するのをはっきりと感じ、とても暖かく、涙がすぐに流れてきました。これは師父が見守ってくださり、励ましてくださっているのだとわかりました。しかし、試練に挫折してすぐに放棄すれば、表面上では別のプロジェクトができるように見えますが、このふてくされた気持ちは取り除かれておらず、このままではどこに行っても仕事ができず、きっとまた、同じようなトラブルを起こすでしょう。明慧のプロジェクトチームに加入できることは、私にとってうれしいことであり、大切にしなければならず、すぐに追いかけなければなりません。ちょうど大紀元も再編を行ない、私が担当している誌面もなくなり、私も心をこめて明慧のプロジェクトを行なえるようになりました。

 しかし、その後の試練が再び訪れました。私が編集する文章にはいつも問題があり、誤字脱字がなかったかと思えば、言葉の使い方が不適当で、さらに原則的な問題が起こり、いつも2次編集者に批判されました。ある時、私は本当に意気消沈し、地元の協調人にメールを送り「自分の修煉が不十分で、いつも2次編集者の要求に合わせることができず、やはりやめにしたいと思います」と言いました。協調人はすぐに返事をくれ、私が書いた辞める理由に対して、一つ一つ解釈と分析を行ない、まったく問題がないかのように、最後に「もう少し丁寧に行なえばよくなります」という一言を付け加えました。私は協調人に心から感謝しました。それは理性的に私のマイナスの要素を捨て去ってくれたばかりか、私が強化すべきところを教えてくれました。それから以後は、明慧チームを離れようとは思いませんでした。

 振り返ってみれば、何が私をこの15年間頑張らせたのでしょうか? 特別な理由は何もなかったように思います。校正の任務はすでに一つの責任となり、生活の中の日常となり、私の生命の一部分になりました。毎日世界各地から送られてくる原稿を見るとレベルはそろっていません。私の責任はそれらの手助けをすることです。そして私の仕事は、文章の風格が全く異なり、レベルがそれぞれ異なる原稿を読みやすくすることです。またその他に迫害を制止し、人を救う文章を取り上げることす。毎週、毎週、他の編集者と一緒に切磋琢磨し、一緒に文章や写真を分析します。私たちの地区に活動がある時は、自然にそのメディアのグループに加入し、他のメディアと協力して明慧の文章を書き上げます。このようにして、15年が過ぎました。実際に最も恩恵を受けたのは私自身であり、このプロジェクトチームの中で成長し、心性を向上させ、突発事件や大規模な活動に向き合い、他の同修と一緒に報道を書き上げ、師父が法を正す進展に、なんとか追いついてやってきました。

 明慧のプロジェクトチームの中で成長する

 自分の心性の方面での最大の突破は、主観的な観点から適当に他人を批判しなくなったことです。実際に文章を編集するにあたっては、平和的で理性的です。以前は原稿を編集した時、時には「この修煉者の原稿は絶対に特別に校正しずらく、さらに他の編集者が取って行ってくれないかと望み、そうすれば自分は頭を悩ませなくてすむ」と考えました。また「ある修煉者、あるいはある地区の原稿は完ぺきな程度にまで達しており、基本的に大きな校正はいらず、このような編集なら楽しい」と考えたりしました。自分にはずっとこの問題があることを知っており、いつも克服したいと思っていますが、効果は大きくないように見えました。

 毎年私は地元の神韻報道に参加し、他の地区も支援します。最近、多くの子供弟子が参加したと聞き、私たちが原稿を書く負担も大きく軽減されました。子供弟子たちは何も批判せず、実際に記録されたインタビューの内容では、この記者は英語が下手だとか、あの記者はくどいなどと恨んだりしません。子供弟子たちの生命に党文化がなくなった後には、このような純真さと善良さが反映されるのかもしれません。純真な子供弟子の前では自分との差を見せつけられて衝撃を受け、ついに自分の党文化や口を修めないこと、善がない問題を見つけ出しました。

 師父は「われわれが口を修めるようにと説くのは、次のような場合です。常人の中での捨て難い名利や、社会における修煉者の実際の仕事と関係ないことについて話したり、あるいは同門弟子の間で無駄話をしたりすること、あるいは執着心に唆されて自分を顕示すること、あるいは聞き伝えに過ぎないなんらかの噂を伝え広めること、あるいは社会のその他の話題に興奮を覚えたり、喜んで話したがったりすること、などです。これらはみな常人の執着心であるとわたしは思うのです」[2] と説かれました。この法を再度読み、本当に人心を真っ直ぐに指し、とても恥ずかしさを感じました。自分は「興味津々と話す」ことはないと話していますが、深く党文化の影響を受けた後の態度を隠しているのも同じことで、これはすぐに取り除くべきなのです。悟ればすぐに実行します。明慧の編集の中でもう一度自分を振り返って見て、正しくない人の考え方や観念が少なくなった後に、送られてきたすべての原稿をもう一度見ると、やはり例の地区と同修から来たものでしたが、それを気にすることもなく、無意味に批判したりしなくなりました。心に様々な雑念がなくなると、編集の仕事はとても順調になりました。

 今年の神韻報道の後、2次編集の原稿審査は以前より厳しくなり、時には私たちの目の前にいる記者と編集長は明らかに要求に符合していると思っていても、2次編集に行くとそれが否定されます。このように多くの時間と精力が浪費され、どうにもなりませんでした。地元では多くの公演があるため、報道のプレッシャーは特に大きく、書き終えた原稿が2回目も否定され、載せる予定がなくなると、2次編集とのトラブルによって自分の心性はすでに頂点に達したと感じました。編集長も「私は本部へ行って苦情を言ってくる」と言い、ある記者は「2次編集者を変えて、載せてもらってくる」などと言いました。自分が明慧チームの中で修煉する基礎を本当に得たのに、考え直してみると「どうしてこのようになるのか」となぜ、2次編集者を批判しなければならないのでしょうか? きちんと行なうことが私が行なうべきことであり、互いに尊重し、放下して初めて向上します。また、自分は基準を満たしていると思う心を放下し、一歩前へ進み、衆生の神韻に対する感謝の念を実際に書き、救い済度される生命の話を書くことこそ、当面の私の急務です。このように考えて、すぐに私はマイナス心理から抜け出し、他の現場の記者を励まし、編集長と自分の考えを交流しました。そして、皆で一緒に正面を見て積極的に希望を持ち、また改めて協力して原稿を書くと効果がとてもよく、原稿が否定されることは二度と起こりませんでした。あの数日のプレッシャーと心性上の試練を今思い返すと、まるで一瞬のことのようでした。やはり師父の説かれた「放下すれば、関は小さくなり、あなたは変って大きくなり、一歩だけで乗り越えてしまいます」[1] のようです。さらに師父は「関を乗り越えることはとても難しいのですが、乗り越えてから振り返ると、その関は実は何事でもなかったのですが、当時はなぜかどうしても執着してしまいました。本当に乗り越えてきたら、心性も高まり、業を滅することもできます。必ずこのようになります」[3] と説かれました。

 先日、他の同修が大きめの総合報道の記事を書き上げたので、私はその同修に資料を送り、ショートメールで「お疲れさまでした!」とメールしました。同修が返事をしてきて「そんなでもないです、実に光栄に感じています」と返事がありました。そのショートメールを読んで「そうです、明慧チームに加入し、その中で皆と一緒に成長し、心性を向上させ、この感動的な過程を記録し、私たちの光栄などというものではなく、これは私たち一人一人の明慧のプロジェクトチームの修煉者の心の声でしょう」と思いました。

 結び

 よろめきながら歩いてきた修煉の道ですが、周りの同修に本当に感謝します。まるで前世で約束したかのようで、今生で、どんなに大きな難に遭ってもお互いに引っ張り止めてきました。多くの言葉はないのですが、互いに引っ張り止め、一緒に法を学び、一緒に煉功し、一緒にプロジェクトの会議を開き、皆ここまで歩んできました。そして、私が落ちていかないように、皆が引っ張り止めてくれました。

 数年前、私は幼い娘を失いました。娘を亡くした時、失意のどん底に落ち、急にすべてに意味がないように感じ、自分にぴったりと鍵(かぎ)をかけ、自分がとことん失敗したと感じました。周囲の修煉者が一人一人その場におり、時には自分が早朝の煉功を終えた後の空が晴れわたった、美しい写真をメールで送ってきました。またある時には、自分がその日学法した時の体得をメールで送ってきました。またある時には、私を引っ張り出して一緒に昼食を食べ、あるいは私を連れて神韻のポスター貼りに行くなど、皆の黙々とした配慮を感じましたが、私は長い間、やはりうずくまっていました。最もひどい時は『轉法輪』でさえ、手にできませんでした。唯一見ることができたのが明慧ネットで、ここに書かれた修煉の話でした。そこには心性が向上した話があり、知恵を以って真相を伝える話があり、さらに、海外報道や一遍一遍の体験した文章があり、私を魅了しました。何かについて専門的に書かれているのではなく、ありのままに、みごとに、そして慎重に、それぞれが歩んできた歴史が記載されていました。それらは雨が静かに降り、万物に潤(うるお)いを与えるかのように私の心を潤しました。毎日1編も漏らさずに読みました。全世界津々浦々の修煉者が、どんなことに遭ったとしても修煉する心を堅く信じて歩んでいることに、深く心を突き動かされました。これがきっかけで、私もゆっくりとですが、徐々に修煉の道に戻ることが出来ました。

 その後、明慧チームの同修2人が私に会いに来て、一緒に学法するようになりました。私たち3人は3カ所の異なる区域に分かれていました。私たちは師父の1996年の『シンガポール法会での説法』から学び始めました。まるですべてのことが最初から始まり、何事も起こらなかったかのように、「真・善・忍」の三文字の教えから学び始めました。学法の時は何もかも忘れて小学生のように、少しずつ最初からやり直し、最初から学び始めました。1998年に初めて北京で大きなグループでの学法に参加した時に、再び、やっと戻ってきたような感じでした。新しい修煉者として、改めて修煉し始め、改めてしっかりと起き上がりました。同修の皆さんの無言の助力に感謝します! やはりこのお言葉「師がいて、法もあるのに、何を恐れるのですか? 無視すればよいのです!」[1] だと、つくづく思いました。

 同修の皆さん、ありがとうございます。師父、本当にありがとうございました!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:「シドニー法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法一』「米国での第一回説法」

 (明慧20周年法会の交流文章より抜粋、 編集)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/6/4/387645.html)
 
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