修煉において 子供弟子との差を見つける
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2019年4月12日】我が家には8歳の子供弟子がいます。私は娘を連れて小さい時から一緒に修煉しました。はじめの頃は娘がまだ小さいので邪魔にならないかと心配し、子供は大人のようにはできないと思いました。しかしその後の出来事は私の考え方を変えました。

 ある時、私は些細なことで娘を怒り、心性を守れず叩きました。泣き出した娘はしばらくしたら私のところへ走って来て、「ママ、ママ」と言いながら、「ママは素晴らしいママだよ」と言いました。お世辞には見えず、本当に心から言ってくれたように感じました。その瞬間、純粋とは何かを師父が私に教えておられると分かりました。私に叩かれても怨まず、逆に私のことを良いママだと思う娘とは対照的に、もし私が同じように扱われたら、表には出さなくても、心の中に残ってなかなか消えないかもしれません。

 娘が夢中に遊んでいて転ぶと、私はいつも「ほらほら、話が聞かないから罰が当たったでしょう?」と叱りました。しかし私が不意に転んだ時、娘はいち早く走って来て私を起こしながら、「ママ、大丈夫?」と心配そうに聞きました。娘に比べると私はあまりにも慈悲がなく、善の心が足りません。この出来事から、私は同修が迫害された時、心の中で「やはり普段から心性を修めず、人の助言にも耳を貨さないから、旧勢力に迫害されたのだ」と思ったことを思い出しました。私にはどうして子供のような純粋さがなく、直ちに同修を助けることができないのでしょうか?

 ある時、娘の担任の先生が病気でしばらく休むことになりました。娘はもう1人の同級生と一緒に見舞いに行くと決めました。娘は私に一番いいりんごを1個買って欲しいと頼み、後から私に小さな声で「ママ、もう1個買ってくれない? 同級生にも1個持たせて先生にあげさせたいの。彼女の親は買ってくれないから」と言ったので、私は了承しました。ところが、りんごを買いに行くと、1個5元もする高値でびっくりしました。それでも2個買ってきて娘に渡しながら、「こんなに高いりんごを同級生に渡して先生にあげても、先生はあなたが買ったとはわからないでしょう?」と不満を漏らしました。しかし娘は「それでも構わないわ。先生が食べればいいのよ!」と嬉しそうに言いました。それを聞いて私は恥ずかしくなりました。娘がりんごをあげる目的は、ただ先生に食べてほしいだけですが、私の目的は先生に感謝されたいのでした。これは私が人々に法輪功が迫害される真相を伝える目的は人を救うためではなく、自分が何かを求める心があることと同じではないでしょうか?

 その後同級生は先生の見舞いに行くことができず、娘は一人で行くことにしました。電話で先生に住所を尋ねた上でバスに乗って行きました。バスを降りて具体的な番地など迷いながらも自分で先生の家までたどり着き、先生に会うことができました。実は娘は肝っ玉が小さい子で、普段から大きな声で大人と話すことさえできなかったのですが、今回の事では全く別人のようでした。娘は心から先生を心配し、先生の為にと思う一心で出来たのだと思います。これは師父が私に「人の為」にという力を見せてくださり、人の為なら自分のことや自分の配慮まで放下できることを教えられていると悟りました。私が真相を伝える時完全に人を救う心があれば、今のようにいろいろな執着に阻まれることはないでしょう。

 その後、娘のクラスの子供たちはクリスマスのプレゼントを先生に贈りました。娘がりんごを1個包んだ箱を見て、私は先生が分かるように娘に自分の名前を表に書かせました。名前を書いている娘の姿を見て、ふと師父の説法を思いました。「子供を教育する際に、将来社会でやっていけるように、大人はよく子供がまだ小さい時から『利口になるように』と教えています」[1]、「小さい時からこのような教育を受けてきた子供は、常人社会で利己心が次第に大きくなり、得をすることばかり覚えてしまい、それによって徳を失うことになるでしょう」[1]。私の教えはまさに子供を悪くしてしまうことになるのではないでしょうか? 私はとても悔しくてなりませんでした。

 ある時、私が体調不良だったので、娘が代わりに買い物をしたり、ご飯を炊いたり、家事をしたり、出来る範囲で私を手伝ってくれました。娘を見て、私は病業中の同修に対する自分の態度を思い出しました。往々にして私は同修を助ける前から、自分の修煉と「三つの事」が影響されないかと不安に思いました。しかし子供の考えは純粋で、私が援助を必要とするとき、できる限り助けてくれました。子供弟子に照らして考えると、もし私たち同修全体が真相を伝える病業の魔難の中にいる同修に対していかなる「私心」も持たず、自分ができる限り助けてあげることができれば、魔難を乗り越えられないことがあるでしょうか?

 学法においても子供弟子との差が見つかりました。娘の場合は分からないところがあれば必ず聞いて分かろうとしました。例えば、『轉法輪』を学ぶ時に「膻中穴」はどこなのか、師父が説かれた大小の周天はどのようにして身体を回っているかなど、はっきりしたかったのです。比べて見ると、私は学法する時に分からない内容について、わかるところだけ分かればいいと思いそのままにして、自分に照らして考えませんでした。娘のことから私は今までの学法が心の中まで入ったのか?  本当に師父の法を一つ一つ理解したのか?  またそれを自分の言動や考えに照らして見たのかなどを見直しました。

 また娘は真相を伝えることにもまじめで、保育園の頃から今まで毎週の週末になると、風雨に関わらず、家を出て私と一緒に頑張りました。たまには娘に引っ張られて行くときもありました。

 ここまで書いてくると、私は子供弟子が大法に基づいているところや純粋なところ、それにやさしい心に気づきました。普段はこれらが見えず、娘は遊んでいるばかりでさっさと宿題をしないことや、食べることが好きで、ゴミを散らかすことなどしか見えませんでした。そのためにいつも娘を厳しく叱り、全然進歩しないと思いました。これと同じで、私は同修達に対しても人の良いところが見えず、まだ修められていないところばかり見て不満でした。

 我が家の子供弟子から、私は純粋でない自分を見つけることができました。また、表面から人を判断してはいけないことがよく分かりました。同修の中で、必ずしも立派な言葉や目立つ行動があるからよく修めたというわけでもなく、無口で地道に修煉する素晴らしい同修はたくさんいると思います。

 以上はあくまでも個人的な体験談にすぎませんので、不足しているところがあればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/3/28/383963.html)
 
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