安逸心を取り除く
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 【明慧日本2019年1月3日】半年前、朝の煉功を終えた後『轉法輪』を学ぶべきなのに、二度寝をしてしまいました。しかし、この30分ほどの二度寝の間に見た夢に驚いて目が覚めました。夢の中の私は「この日、試験を受けに行く予定で、早めに起きて髪を洗おうとしていました。髪を濡らすとシャンプーが見つかりません。私は焦っていました。これでどうやって出かけましょうか? 試験に遅れてはいけない」と思いながら、寝ているようで寝てはおらず、絶えず布団を蹴飛ばしていました。「シャンプーを見つけた私は、髪を洗って身支度をし、急いで試験場へ走っていきましたが、受験票に書かれた教室と座席が見つかりません。私はとても後悔していました・・・」。その後、また別の夢を見ました。「蓮の花の池の上空を漂っていますが、いくら羽ばたいても、高く飛べず、足は池の水面から2メートルしか離れませんでした」

 ここで、驚いて目が覚めました。瞬間に、修煉の時間の緊迫さを感じました。その日から、二度寝が怖くて、二度と二度寝をしようとは思いませんでした。自分が試験とすれ違うことがわかった後、寝ようとしても寝られませんでした。時間通りに朝に煉功し、その後師父の説法を聞くか『轉法輪』を学ぶかのいずれかをしばらく頑張っていました。

 するとまた、昨夜夢を見ました。師父が大法弟子たちに説法され、弟子達は師父の周りで静かに聞いていました。私は少し離れたところに寝ていました。そろそろ師父の説法が終わろうとするころに目が覚めて、聞きに行こうと思うと、師父の説法は終わっていました。結局、何も聞くことができませんでした。その後、師父は弟子たちを連れて景色がとてもきれいなところへ行かれました。眺めてみると、そこの池はとても青くて清らかで、水浴びをしている人がいました。私は師父について行きましたが、少し歩くと、目の前に高さ2、3メートルほどの大きな石が現れました。私がこの石を超えなければそのきれいな水のあるところへ行けません。こんなに大きな石をどうやって超えようかと思いました。私は、師父が私の手を引いて飛び越えてくださったらいいのになと思いましたが、師父は振り返られませんでした。もう考える時間はないと思って、心を放下し目を閉じたら、その池まで飛んで行っていました。

 師父が私たちに段取りしてくださった修煉の道は、私たち自身で乗り越えられるようになっています。それにもかかわらず、私は歩む勇気がありませんでした。それと比べて、他の同修達の歩みは軽くて速いと思ったら、もっと速い同修もいるのです。私はその石に阻まれました。なぜでしょうか? 師父が説法された時、私は寝ていたので、師父について行こうと思っても、心の中に法がないから、ついて行けませんでした。頭の中に法がなければ、一つの石でも歩む道を阻みます。心を放下して歩めば、乗り越えるのはそんなに難しくなく、ただ一念の違いだけでした。

 冬になって、だんだん寒くなってきました。朝は暖かい布団が恋しくて、なかなか起きたくありません。昼間に時間を作って煉功できれば問題ないといつも思っていますが、昼間はなかなか時間が作れませんでした。五式の功法を全部やるのはとても難しいのです。煉功をすこしでも緩めたら、朝2時間の睡眠では疲れを緩和できませんし、身体もだるくて、昼間に全然元気が出ません。学法発正念もさらにうまくできませんし、真相を伝えるときも、衆生の謎を解けません。大法の力を持っていないからです。大法弟子の命は、法で充実されるものなので、その安逸の状態は、長い間ご飯を食べていないかのように、力が出ませんでした。

 師父は「全体の形勢は大法弟子にとってますます緩和されました。しかし、緩和されればされるほど、圧力は軽減しますが、それによって安逸心が生じやすくなり、少し心地よくなりたいとか、少しのんびりしたいとか、ゆっくりしたいとかなどの具合です。実は大法弟子の生活はすでに修煉と一環一環、緊密につながって溶け合っているため、自分を緩めてしまったことは、すなわち修煉を緩めたことになります」 [1]と説かれました。

 毎回、修煉が明らかに向上していると感じるときは、いつも自分に厳しく要求し、学法や、煉功や、法輪功の真相を伝えたり、明慧の文章を読んだりして、少しの時間も浪費したくないときです。そのときは常に心身が法に同化し、幸福感を感じているときです。

 少しでも油断すると、自分自身への要求を緩めやすくなります。安逸心は精進しているときでも現れやすいのです。この間、良好な修煉状態にあると感じているので、何をやるにも法理に従っていると思い、たまには緩めても大丈夫ではないかと油断したら、だんだんと知らないうちに集中力が散慢になってしまいます。

 修煉の道はいたるところに試練があります。大したことではないように見えますが、ぜひ警戒心をもって、何事も油断せずに自分自身への要求を緩めてはいけません。個人の考えですので、適切でないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/12/21/378701.html)
 
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