文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年4月12日】修煉の中で、どのように自分の心を是正すればよろしいでしょうか。皆無条件に内に向けて探すことが出来れば、是正できると知っています。しかし内に向けて探す時、人心が見つからない場合があります。そこで、近年私がどのように内に向けて探したかについて、皆さんと交流したいと思います。
内に向けて探すとは、「大法」を基準とし、自分の人心を探し出すことです。「大法」とは「真・善・忍」です。私はこの三つの方面から自分の人心を探しました。
一つ目は「真」です。自分のすべての考え、振る舞いを確認して、「真」が出来ているか、嘘をついてないか、何かを隠したり、人を欺いたり、いい加減にしたり、見せかけたりしてないか、学法を真面目にやったのか、発正念を真面目にやったのか、煉功を真面目にやったのか、法輪功迫害の真相資料を真面目に作成したのか、勤務先で真面目に仕事をしたのか、迫害の真相を伝える時の出発点は本当に世人を救い済度するためだったのか、トラブルに遭遇した時に無条件に内に向けて探し、執着を取り除いたのか、本当に師父と「大法」を信じているのか、「大法」書籍と師父の写真の配置は師父と「大法」を敬うようにできたのか、トラブルに遭遇した時、本当に一人の修煉者として振る舞ったのか等などを確認してみました。修煉の中で、「真」は修煉の基礎であり、自分に厳しく要求し、真面目な修煉態度がなければ、どのようにしてしっかりと修煉できるでしょうか。
二つ目は「善」です。トラブルに遭遇した時、人のために考えれば「善」であり、自分のために考えれば「私」です。私達は常人社会で修煉しているため、人との付き合いの中で「利益に対する得と失」の問題に及ぶことがしばしばあります。誰のために考えるかは、私達の心性に対するテストとなります。人間には「私心」があり、神は「無私」であるため、「私心」のある人間から「無私」の神になるには、必ず「善」を修めなければなりません。では人と付き合う際に、「善」が出来ているかどうかをみてください。「善」は私達が修煉する目標であり、自分を完全に人のための人になれるように、修めなければなりません。
三つ目は「忍」です。「常人の忍」はトラブルに遭遇した時、心が動じてしまったが、行為がなく、それは一種の「表面的な忍」です。「修煉中の忍」は本当に「徹底的な忍」であり、心を動じさせません。利益の損得の前でも心を動じさせません。ここでいう「利益」とは人間社会の「名、利、情」のことです。利益の損得の前で心を動じさせないためには、必ず利益に対する執着をなくさなければなりません。執着があれば、それは放下できていない現れです。どうして放下できていないのでしょうか。利益を重く見ていて、自分にとって利益が大変重要だと思っているからです。実際に、二つの方面に及んでいます。一つは自分のために考えることで、もう一つは利益が重要だと思うことです。
生まれたばかりの赤ちゃんには出来上がった思想が全くなく、非常に純粋です。成長するにつれて接触した環境、周りの人がみんな彼に「人間は自分のために、この世に生きている」という私的な、我のための観念を注ぎ込みます。こうして彼の思想の中には私的な観念が少しずつ形成され、ますます自分の利益を重く見、自分に執着します。そして利益の損得を目の前にすると、自分のために考えます。
現在の常人は比較的利己的で、人がもし善良に生活すると人と付き合う時に、損を蒙りやすい、人に傷つけられやすいと思い、こんな生き方は自分に不利益だと思います。もし私的な生き方をして、何かに遭遇した際、自分のためにだけ考えると損をし難くなります。またうまい汁を吸って、人に傷つけられ難く、こう生活すれば自分に有利になります。一人の常人として、彼の目には世間での損得しか見えず、彼は他の空間の存在を知らないし、他の空間での損得も見えず、だから常人の観念と認識は一方的なものです。
実際、法の中で生存している生命として人間と付き合う時、私心を動かして自分のことを考える必要は全くありません。法はすべてを制御し、均衡を取り、按排しています。「大法」は公正かつ無私で、正義を司(つかさど)り、誰かが世間であなたを傷つけたら、法は他の空間であなたに償うのです。あなたが善良な心で人のために代価を支払ったら、法はあなたに報いを按排します。あなたにただ代価だけを支払わせることは絶対になく、あなたは支払った分得られます。法の中で生存している生命として、すべてがしっかり保障されています。だとすれば、このような偉大で、慈悲で、威厳で、公正で、無私で、至る所に存在し、出来ないことの何もない「大法」の前で、自分を放下できないなどという何の理由があるでしょうか! 自我を放下し、私心を放下し、自分の全てを「大法」に任せ、すべて法の按排に従うことがあなたにとって、最も有利なことです。
逆に、「利己的」に生きていて、トラブルに遭遇すると自分のために考えれば、あなたは他人を傷つけることをやってしまい、本来人のものだったのに、あなたが方法を尽くして自分の手に入れてしまうかもしれず、表面上では世間であなたはうまい汁を吸ったことになりますが、他の空間では人に一塊の徳を償いとしてあげますので、あなたは決してうまい汁を吸っていません。同時に、人はものを失ったため苦しみますが、そのためあなたも業を作ってしまい、将来、業を返す時に苦しまなければなりません。全体的に見れば、あなたは少しもうまい汁を吸っておらず、また余計に苦しまなければならず、損をしただけで、不運になります。ですから、「利己的」な人はうまい汁を吸ってないだけでなく、損をし、自分を不運にさせます。
トラブルと苦難に遭遇した時、もし執着が見つからなければ、まず急いで「人間の観念」に「主導権」を与えず、心を静めて『轉法輪』を読めば、心が随分明るくなり、もっと広く、深く、純正に世界と人生を見ることができるでしょう。
「真・善・忍」に照らして探す時、「真・善・忍」に符合してないすべては「人心」であり、直ちに法の中で正すか、正念で取り除き、それから前へと歩むべきです。
以上は個人の浅はかな悟りであり、同修と切磋琢磨し、交流するために書き出しました。不適切な所については、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。