内に向けて探し 真に修煉する弟子になる
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文╱遼寧省の大法弟子 正心

 【明慧日本2019年6月22日】私は今年62歳で、法を得てからすでに二十数年が経ちました。もし大法を修煉していなければ、私は今日まで生き延びることができませんでした。過去を振り返ると、全てが今もはっきりと目に浮かびますが、師父は弟子のためにあまりにも多くのことを耐えて下さり、人間の言葉では言い尽くせず、師父の洪大な慈悲を表現できません。私はこれからも一層精進し、着実に自分を修めることで、師父の慈悲なる済度に報いるしかありません。

 最近の「内に向けて探し」、「心性を修める」経験を以って、同修の皆さんと交流したいと思います。

 安逸心を掘り出す

 今年の旧正月前後に子供や孫たちが帰って来たので、私はグループ学法に参加せず、しばらくの間、家で一人で法を学び、自分の修煉を緩めてしまいました。早朝の煉功を終えて、朝食を用意するのにまだ早いと思った私は、少し寝ることにしました。しかし、目が覚めるともう1時間も過ぎており、この状態が半月以上も続きました。ある日、夫に「朝ご飯は急がないから、好きなだけ寝なさい」と言われました。

 この言葉に私はハッとなりました。修煉者の私は、常人である夫の話に従っていてはいけません。二十数年も修煉し続けてきて、こんなことは今まで1回もなかったのですが、一体何の心がこの眠気を招いたのでしょうか?

 思えば、この間から昼間に法を勉強してもアクビをするし、座っても立っても、それに歩きながら法を勉強しても眠くてならず、内に向けて探さなければ分からなかったのですが、いざ探して見て、やっとその恐ろしさに気づいたのです。その原因は「睡魔」と「安逸心」だったのです。それが欲するものは眠りと、楽(らく)したがる心で、私の学法を妨害し、ゆでガエルのように私を少しずつ下へ引っ張っていき、私をこわそうとしていました。これは大変なことではありませんか。

 私はすぐに発正念して、「睡魔」と「安逸心」を根絶するように師父に加持をお願いしました。正法の口訣を念じて、師父の詩「一路法を正して天の蓋を切り開き 不正にしてかつ負なるもの全てを淘汰す 蒼天が変ぜんと欲して誰敢えて阻む 乾坤再造して永久に敗られず」[1] を暗唱しました。その後、私は毎日多めに発正念をし、法を暗記し、早朝に煉功し、眠気を感じたら正念で抑え、解体することにしました。徐々に、私は睡魔の妨害から解放されていきました。

 色欲心を取り除く

 夫は常人なので、毎日テレビを見るときは音量も大きく、私がどの部屋にいてもはっきりと聞こえます。最初、それが妨害だと気づかず、正念で抑えることもしませんでした。徐々に、頭の中に「少しなら、見ても構わない」といった良くない念が浮かんできました。初めは2~3分だけ見ていたのが、5~6分、10分、15分という具合に見る時間が徐々に長くなり、こうして半月も見ているうち、好きな番組のイントロが聞こえた瞬間に気がそこに向いてしまい、気が付けば身体もその部屋に向かっていました。

 ある日、学法の途中で、私は本を置いてテレビを見に行きました。再び学法しに戻ったとき、自分を抑えきれないほど涙が流れてきて、どうしても止まりませんでした。「なぜ泣くのか? なぜ学法をやめるほどテレビを見たかったのか?」。私は絶えず自問しました。気にして見ていたテレビ番組は若者の恋人探しをテーマとするもので、これは「色欲心」ではありませんか?! この執着心を断ってすでに10年以上も経ち、てっきり取り除いたと思っていましたが、未だにこんなに深く隠されているとは知りませんでした。師父は「忠告しておきますが、決して行ってはいけません。聞けば、良くないものがすぐ耳に入り込んでしまいます」[2] と説かれました。なんと恐ろしいことでしょう。夫は毎日大音量でテレビを見ており、私はそれに抵抗せず、また、正念で排除するどころか、逆に「少しぐらい、見ても大丈夫だ」という考えが生じてきました。これは深く隠れている「色欲心」の仕業で、それがテレビを見ようとして、私に「番組の時間だ」と思わせ、自分が修煉者であることを忘れさせ、正念が全く作用しないようにしてしまったのです。これは本当に恐ろしいことで、内に向けて探すまで全く気づきませんでした!

 そして涙が溢れ出てきたのは、きっと悟らない私を見て、師父は私の分かっている一面に刺激を与え、その一面が精進しない私のために焦りの涙を流したと思いました。私はこの「色欲心」を取り除くために、絶えず発正念しました。

 翌日の学法で私はじっと座ることができて頭に良くない考えが浮かんで来ず、テレビへの関心も薄れて、その「色欲心」が師父によって取り除かれました。本当に師父に感謝します。まさに師父のおっしゃる通り、「修は己にありて、功は師父にあり」[2] です。大法の超常さと不思議さが再び私の身で立証されました!

 怨む心を取り除く

 先日、私の誕生日に3人の姉が私の家に集まって来ました。弟夫妻も墓参りのために地元に帰って来ていると聞いて、彼らも家に呼ぼうとしましたが、夫はどうしてもダメだと言い張り、私は我慢するしかありませんでした。 

 20年以上修煉してきて、夫による家庭内暴力は常でした。師父は「煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、常に高い基準で自分を律しなければなりません」、「一応は耐えられたとしても、内心では落ちつかないようでしたら、それでも駄目です」[2] と説かれています。しかし、私は本当に心から放下することが出来ていないため、ずっとこの魔難の中でもがいてきました。

 数日後、夫の誕生日がきて、私は彼に200元を渡し、食べたいものを買って来てと言いました。彼は市場を一周回って、何も買わずに帰って来ました。私は「今日はあなたの誕生日なので、水餃子を作ってあげようか」と提案しましたが、彼は要らないと言い、「手羽先を食べたかったけど、高すぎて買わなかった」と言いました。私は「それなら、私が買ってくる」と言って、家を出ました。ところが、家を出て間もなく両足が動かなくなり、呼吸も困難になり、不平不満の念が次々と脳裏に現れてきました。「彼はまったく優しくしてくれない。家事もしないし、関心も見せてくれない。殴りたかったら殴るし、罵りたかったら罵り、生活費も入れず、なぜそんな彼のことを構うのか?! なぜ彼の好きなものを買ってあげる必要があるのか?! この間、弟を呼んで来ようとして止められたではないか?!」。これらの突如やってきた良くない考えのせいで、私は窒息死しそうになっていました。私は発正念をしながら、それらの良くない考えを必死に抑えました。まさにこの「怨む心」が不満に思っているのです。しかし、私は修煉者なので、それに従って考えてはならず、正念を用いらなければなりません。私は師父がおっしゃった「無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにする」[3] を心の中で暗唱してから、歩きながらこの「怨む心」に向けて発正念をしてこう言いました。「私は修煉者で、師父の話に従って他人のために考えなければならない。夫の欠点ばかりを見るどころか、彼を救わなければならない。彼の言動が自分の鏡だと知りつつ、自分を修めずに彼を怨み、文句を言い続けてきて、これはどれだけ大きな執着なのだろうか。この「怨む心」は要らない!」

 続いて、私は自分の身体に向けても発正念をしました。師父は「真に修める人には病がなく」[4] 、「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」[2] と説かれています。この「怨む心」は私の修煉の道のりを塞ぎ、私の精進の歩みを阻んでいました。私は一歩一歩前進し、必ず利己的なこの心を放下して、この「怨む心」を取り除きます。

 こうして本来10分ほどしか、かからない道のりですが、私は1時間半もかけてやっと家に戻りました。家に着くまではずっと正邪との戦いで、力を使い果たしそうでしたが、家に着くや否や、座禅して発正念を続けました。

 最近、私は毎日『党文化の解体』と『共産主義の終極の目的』を聞いています。「怨む心」は邪党の低次元の生命で、もっとも良くないものです。私はそれを抱えてどうしますか? 「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[5]  私は師父の法を暗記して、その良くない生命と対話してみました。「怨む心よ、私は今、李洪志師父の弟子です。法輪大法を学び、宇宙の最高特性である真・善・忍の基準で自分を律しています。師父は私たちに何かを行なう時、まず他人のことを考えるように教えられています。私は師父の真の弟子になりたいのです」。こうして、夫に昼ご飯を用意し、片づけを終えた時、身体のすべての不調が消えました。本当に師父の無量な慈悲に感謝いたします!

 絶えず内に向けて探すうちに、私は真の自分を見つけました。師父は「功が伸びない根本的な原因は、『修・煉』の二文字の中で、人々がその煉しか重視せず、修をおろそかにしていることにあります。あなたは外に向かって求めても、何も得られません」[2] と説かれています。以前、この段落の法を読むとき、「私ではなく、師父は他人のことを言われているのだ」と思っていましたが、今になってやっと認識しました。「私ではない」と考えるのは修煉ではなく、人心そのものです。真の自分なら、必ず無条件に「真・善・忍」という宇宙の特性に沿って自分を律しているはずです。法に則って判断するなら、「真・善・忍」に符合すれば正しいことで、そうでなければ、必ず邪悪の部類になります。修煉は難しいことですが、最終的には必ず目的地に着かなければなりません。

 師父はこうもおっしゃっています。「あなたに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[2] 。如何なる執着も、修煉にとっては障碍になります。どんな人心があっても私たちは信念を固め、師と法を堅く信じ、師父が按排された修煉の道のみを歩み続け、師父の真の弟子になるように努めるべきです!!

 師父の日々のご心労に感謝いたします!

 師父の救い済度のご恩に感謝いたします!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「法を正す」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [4] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「長春法輪大法輔導員のための説法」
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨(二)』「妨害を排除せよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/10/386609.html)
 
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