内に向けて探すことの認識
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年4月24日】同修はみな内に向けて探すことを知っていますが、どのようにしっかり探すかわからない同修が大勢います。例えば、利益が失われ怒りを感じたとき、内に向けて探すと、これは利益心が働いたものだとわかります。

 しかも、表面だけを見るのではなく、心の根元にある人間の観念を探し出す必要があります。人は損をすると怒り、利益を得ると嬉しいという観念があります。修煉者はこの観念を変える必要があり、損をした時こそ喜ぶべきで、甘い汁を吸ってはいけません。

 私は一部の同修に「人の観念とは何でしょうか?」と尋ねると、多くの同修はこれに答えられませんでした。このような状態で観念を変えることができるでしょうか。私たちはまず人の観念にはどのようなものがあるのか、一つ一つの物事の中に現れた観念は何かを認識しなければなりません。

 観念とは人間の理、人間の好き嫌い、人間の思考慣性、人間の感受などです。

 例えば、他人からの尊敬、他人からの親切、子供たちの孝順(こうじゅん・父母によく従うこと)が好きで、良い言葉、笑顔、良いこと、心地良さ、自分の考えに従って行動することが好きなど、自分の思い通りにならなければ怒ります。師父は、「例えば、ある人が職場に出勤したら、まわりの雰囲気がどうもおかしいということに気づきました。後になって人から、『誰それが君の悪口を言っている。上司に告げ口をして、君のことをさんざん言い触らしたりしている。君は鼻つまみ者にされたんだよ』と聞かされました」とか、「君はたくさんの執着心を捨てなければならない。そのために行脚に出かけなさいと彼に言います。行脚は非常に辛いことで、社会の中を放浪し、物乞いをしながら、いろいろな人に出会って、嘲けられたり、罵られたり、いじめられたりして、どんなことにも遭遇する可能性があります」[1]などと例を挙げられました。

 師父は他人を通してあなたに法を悟らせ、天に登る梯子を架けて下さいました。ですから自ら観念を変え、良くない考えを正し、心性の向上する機会だと考え、真摯に受け止めます。

 さらに常人あるいは同修とのトラブルに遇った場合、自分の内面ではなく、他人の非を探す時、考えれば考えるほど怒りを感じます。これは典型的に外に向けて探し、人の理で見ているのです。人の理はまさしく修煉者の魔性ですから、突破すべきです。何か問題に遭うとすぐ相手の良し悪しを追及し、言い争い、責任を転嫁することはみな人間の観念です。

 多くの同修は表面の良し悪しに執着して動くことが出来ませんでした。実際には、他の人が間違っているのをみるのは良いことです。そうでなければ、あなたの心を引き出せません。このとき、ちょうど自分の心がどのように動いたかを見て、心が動じなければ執着を取り除くチャンスなのです。

    師父は「あなたに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」「1」、「皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」「2」とおっしゃいました。故に人間の理を真理とするのであれば、永遠に常人なのです。

 これは個人の悟りであり、妥当ではない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/9/384888.html)
 
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