「利」と「益」の話
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2019年4月3日】最近出会った一つの小さいことから、私は利益についての新しい認識ができました。

 今のシーズン、私たちは多くの同修が神韻推進部屋に住んでいます。ある日の朝、私が寝ていたところ、ある同修が突然ライトをつけてスーツケースを整理すると言いました。私はほんの少しでも光があると眠れなくなるので、目が覚めました。私は嫌な気持ちで「ライトの光を小さくできないの?」と小声で言いました。言った後、これはあまりふさわしくない、自我だと感じました。私のどういう執着が働いたか、当時はあまりはっきり分かりませんでした。

 夜、学法のとき、突然このことを思い出すと、「利益」という二つの文字が現れました。利益は金銭、財産、物質に限らないとわかりました。「利」とは自分に有利なこと或いは自分に都合の良いことで、「益」とは自分に有益なことだと理解できます。同修がライトをつけたため私が目を覚ましたことが私の利益を損なったので、私は嫌になったのです。

 この件を通して、私は金銭、財産、物質に対する利益の心を、さらにきれいに放下する必要があると思いました。我が家は金持ちではありませんが、この数年法を実証する異なるプロジェクトに少なくないお金を援助し、決して他人からのうまい汁を吸ったことがなく、同修に頼まれた制服の購入も完全に清算し、一銭の便宜も図ったことがなく、経済的に困難な同修にも気前よく服などを贈りました。これらはみな私が自発的に与えたもので、「有為」とも言えますが、心は平然とできました。しかし、私のうまい汁を同修に吸われたら、私は不満でした。このとき「無為」ができなくなりました。これはこの利益の心が小さくないと言えます。考えてみると、歴代の修煉者で佛になった人は自分の利益がほんの少しでも損なわれると、憤懣やるかたないことになるでしょうか?

 表面から見ると、これらの同修はどうしてこんなに他人からうまい汁を吸うことが好きなのでしょうか? 実は、皆さんは私が利益に執着する心を修めることを手伝っていたのです。

 ここまで考えると、私は修煉者として金銭、物質に対する利益を重要視しないだけでなく、いかなる「利益」をも重要視しないようにしなければなりません。そして自発的に与えても、自分が妨害されても、心が揺れなければ利益に対する執着心が完全に少なくなり、徐々に他人の為の生命になり、はじめて新しい宇宙に辿り着くことができるのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/2/11/382572.html)
 
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