文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年4月16日】毎年、中国共産党の敏感日になると、中国政府は各会社や社会団体に監視するように命令を出します。これは陳情する人達(中央政府に問題を解決するため、陳情しに行く人達)や、退役軍人、法輪功修煉者などを監視することです。従って、私も被害者になり得ます。
法理上、内に向けて探して正念で妨害を除去し、旧勢力の如何なる按排も認めないという法理は分かっていますが、完全にしっかりと法理通りに行ったとは言えません。
ある日、一つの考えが現れました。「私がいろいろと行なうのは、実際は落ちこぼれることを心配するからです」。しかし、具体的に何のことで落ちこぼれたのか心配しているのでしょうか?
数日前、学法する時に師父の経文の、「実のところ、これは最後の執着を放下する時期が来たのです。修煉者として皆さんは(人体への執着も含む)一切の世間の執着を放下することをすでに分かっており、これを成し遂げることもでき、生死を放下する中から歩んできたのです。ならば、圓満成就に執着することも執着ではありませんか? これも人心が執着しているのではありませんか? 佛が圓満成就に執着しますか? 実は、真に圓満成就に近づいている修煉者にはこの心はありません」[1] により、いろいろと考えさせられました。私が落ちこぼれることについて心配するのは、圓満成就での落ちこぼれに執着する心ではないか、この執着心は狡(ずる)くて、隠れている心だと感じました。
深く掘り込んで考えてみると、この執着心のために命を投げ出すこともあるし、法に従わず人を真似て、正法修煉がそろそろ終わるという声を聞くと、いろいろな事を行ないましたが、基点は人を救うことではなく、全部、自分が落ちこぼれないようにという基点に立ち、あろう事か残酷な迫害を受けてしまいました。私は師父の啓示を無視して家を離れた時、師父の写真に涙がはっきり見えました。邪悪は私を死ぬほど迫害しましたが、師父のおかげで刑務所から脱出しました。
実名で江沢民を訴えた後、一部の同修が江沢民を訴えたために酷い迫害を受けたことを見ると、また恐怖心や迷いの気持が現れ、これは旧勢力の按排を認めるのと同じことで、いろいろな妨害が出てきました。基点が正しい同修は、邪党の敏感日かどうかに関係なく、行なうべきことはしっかり行ないます。比較すれば、私はすでに落ちこぼれていました。
師父は「時には、修煉の中の乗り越えられない関から執着を見つけることができません。それは一部の小さい問題を重視していないからです。いくら小さいことであっても、基準に達することができなければそれでもいけません」[2] と説かれました。
私たちは気づきにくい、それらの深い所に隠れている執着心を掘り出して、各次元でそれらを絶滅し、正々堂々と大法弟子になるようにすべきだと思います。師父は「全ての大法弟子は三界の制約を受けていません」[3] と説かれました。私たちは師父に従って、師父が按排された道を歩むしかありません。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨(二)』「最後の執着を取り除こう」
[2] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
[3] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンDCでの説法』