同修の縁を大切にし、修煉の道を正す
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文/中国の大法弟子

明慧日本2019年6月16日】私は2016年から大法を修煉し始めました。迷いの中で修煉しているため、いろいろな関を見ることも感じ取ることもなく、修煉自体をあまり難しく思っていませんでした。大法弟子が迫害されるのをたくさん見聞きしましたが、自らの経験は全くありませんでした。しかしこの間に、私にとって心に刻みつけるような魔難に遭遇してからは、多くのことを悟り、分かってきました。

 一、家庭内での魔難

  2016年から修煉し始めて、初めて直面したのは家庭内での関門でした。今まで私を大事にしてくれてきた家族でしたが、私のことが急に気に入らなくなりました。次から次へとトラブルが起きる中で、私は自分を修めることを知らず、ひたすら旧勢力の妨害を否定していました。全てが私に対する邪魔と妨害だとすっかり思い込み、問題が起きる度に怒りながら発正念をしていたので、心の中は非常に穏やかではありませんでした。その後さらにエスカレートしてしまい、家族間の溝がますます大きくなりました。人に言われたくない私は逃げるようにして自分の部屋に閉じこもり、外部からの「邪魔」を遮断しようとしました。当時の私は家族間の関門をまだ乗り越えられていませんでしたが、「三つのこと」はしっかり行い、旧勢力の迫害を否定することだと認識していましたので、修煉の道を歩み続けることができました。

 その後、実修する中で私の人心が段々と少なくなり、ついに自分の尊大(そんだい・ひどく偉そうに人を見下した態度であること)ぶりが見つかりました。また、私は旧勢力を否定することについて、新しい認識がありました。それは修煉者として師父の法に基づき、法の要求に従うこと自体が根本から旧勢力の存在を否定することになり、邪悪が自滅することになるのです。

 二、祖父(同修)の死

 母方の祖父母は共に1999年前から修煉しており、私と3人で暮らしていました。常に祖父母の病業と直面する中で、3人の修煉者の間にいつもトラブルが起き、最後には隔たりが生じてしまい、家族が孤立した状態になりました。

 2016年から祖父は出かけられない状態になりました。表面的な原因は、階段を降りる時に足を捻挫したことですが、直ちに妨害を否定しなかった上に正念が足りなかったため、結果的には、大法の真相を伝えられませんでした。それ以降、視力がだんだん落ちてしまい、ぼんやりとしか大法の本も読めなくなりました。私は夢の中で、死亡者リストの中に祖父の名前が書かれているのを見ました。私はその夢を否定しながら、これらの「外来の信息」を認めず、祖父を助けて妨害を否定しようと思いました。 

 最初は時間を空けて祖父母と一緒に学法していましたが、祖父母が読んだ内容は頭に入らず、自分で学法する時に、頭に入らなかった部分を繰り返して読んでいました。これらのことからストレスを感じ、より良く学法をするため、また家庭内のトラブルから逃げるために、私は一人で学法するようになりました。家庭の中で一つの全体が形成できないまま、本心ではないながらも、祖父は病院に行って手術を受けました。手術は成功し、視力も素早く回復して前よりも良くなりました。師父は祖父に学法するよい機会を与えられ、祖父は自分で大法の本を読めるようになり、もうこれで大丈夫だと思い、私はだんだんと気を緩めてしまいました。

 しかし当時は、日常生活の中でトラブルが起きた時、互いに気に入らず、そして内に向けて自分の過ちを探さないため、溝が次第に大きくなり、結局、最も近い「他人」になってしまい、私の精神力は崩れ落ちそうでした。私は普通に家の事などをやっているように見えますが、心中穏やかではありませんでした。家庭内の問題は表面的には一見すると穏やかさの中に隠れていましたが、魔難は一歩一歩近づいていました。

 1カ月前のこと、朝起きた祖父の体に突然異変が現れましたが、私はその深刻さに気付かず、逆に心の中で良くない念が生じました。その後、私は座禅する時、祖父の手が震えながら辛そうに発正念をしているのに気づきました。邪悪が祖父を妨害していると私はすぐに警戒しました。私はすぐに、師父に助けを求めながら発正念をしましたが、目の前で祖父がだんだんと弱まり、最後には旧勢力に命を奪われました。祖父は苦しみながらも最後まで頑張って、死にたくなかったと思いましたが、邪悪に連れ去られることを阻止できず、どうしようもありませんでした。

 すべてがあまりにも突然だったので、私は大きなショックを受けました。その後、学法を通じてすべてが偶然ではないと分かり、少し冷静になりました。しかし、しばらく経つと、家族や親友が徐々に落ち着気を取り戻し、逆に私が悲しみに襲われ、目を閉じると祖父の最後の様子が浮かび上がり、思わず大声で泣き出してしまいました。これは家族に対する情ではなく、一人の大法弟子として、師父に従って最後まで歩めなかった祖父に対する残念さと悔しさの涙でした。長年大法を実証する中で、祖父の慈悲と素晴らしさを見てきた私は、命の最後に祖父の淋しさと無念さを思い出すと、旧勢力の邪悪さと残酷さを痛感しました。私は今になってようやく同修の縁を大切にし、人を大切にすることこそ、自分を大切にすることだと実感しました。私は家庭の中で修煉する自分の状態を深く反省する中で、正しかったことも、間違ったことも、すべて正解が発表されたようにはっきりと分かりました。

 三、同修との縁を大切にする

 修煉において小さなことはなく、過ぎ去ったことや逃したことを取り戻して、やり直す機会はもはやありません。旧勢力の邪悪な按排を実感した私は、自分を真に実修しないと、師父の按排された道ではなく、旧勢力の按排した道を歩むことになると分かりました。

 今回の出来事から、私は自分の修煉の基点が間違っていることに気づきました。「わたし」という基点はすべて「私」(し)です。「わたしを高めたい」、「わたしが学法する」、「わたしが人を救う」…考えているのは全部「わたし」なので、歪んだ道を歩むことになります。自分が行なってきた事を考えると、悔しくてたまりませんでした。本当の「善」って何か? 「人の為」って何か? 自分の基点から相手に要求し、自分の思い通りにならなければ、相手が気に入らず文句を言う、これは「人の為」だろうか? 特に病業や魔難に遭っている同修に対して、さらなる包容力を持って、大きな「善」、大きな「忍」で接することこそ本当の同修の為になります。そうでなければ、旧勢力を手助けして同修を押し出すことになると分かってきました。この2年余り、私は祖父に対して、最初は「同修の為」のつもりで説得しましたが、直さないことに執着して激しく批判し、最後はどうしようもないから無視するようになりました。

 自分の痛々しい教訓を同修の皆さんと共有し、周りの年配者の同修を大切にし、法理上正しくないと思った場合でも、気に入らなかったり、マイナスに考えたりしないことが大事です。往々にして旧勢力は同修たちの人心を拡大させ、マイナスの考え方を持たせ、魔難の中で同修をさらに孤立させるように仕向けるのです。くれぐれもこのような仮相に左右されないように気をつけましょう。師父は人の弟子も放棄されませんが、我々はどうして安易に同修を手放すのでしょうか? たとえ助けられなくても、正念を持って対処すべきです。同修を助けるのではなく、実のところ共に向上し、その中で自分を修めることになり、これは私たち全体に対する試練でもあります。

 身内であり、同修である祖父が修煉において、最初仕方がないという状態からだんだん無口になり、さらに自分の心を閉ざし、最後には旧勢力の按排した道を歩んでしまいました。旧勢力の妨害は別にしても、これを見てきた私はそばにいた同修として、責任を痛感しました。同修が妨害されて亡くなるのは、孤立的なことではなく、実は全体に対する妨害だと思います。

 本当の「善」というのは、強制的に人に与え、一方的に人を変えようとするものではなく、相手の態度や状態を見ず、ひたすら内に向けて自分を探し、自分を修めることだと思います。また、本当の「人の為」というのは、自分の境地で正しいと思ったことを相手に無理に押し付けて要求し、強行に受けさせようとするのではなく、相手の立場から相手の困難さや要求を理解し、相手のことを考えることです。

 師父は最近の説法で何度も年配者の同修に気を緩めず、人と自分を大切にしてほしいと忠告されました。この間、我々の地域にも年配者の同修が相次いで亡くなりました。不当な連行や刑罰は迫害だと皆さんには分かっていますが、年配者の同修に対するこのようなことは、さらに覆い隠された迫害であり、突如やって来て、防ぎにくいものです。

 そばの年配者の同修を大切にし、彼らの事は私たちの事でもあります。修煉の過程で見たこと、接したことはすべて自身の範囲内の修煉の要素であり、逃げてはいけないと悟りました。これらの事をやらない、あるいは良くやらないと、同修にも衆生にも責任を果たせず、しっかりと修煉の道を歩んでいないことになります。

四、師父がおっしゃる通りに行動する

今回の難関のもう一つの教訓は、家庭内の修煉で全体を形成して、集団学法ができなかったことです。集団学法は師父が残したくださった修煉形式で、師父がおっしゃる通りに行動しないのは、旧勢力の道を歩むことになります。

一時期、私は家族への執着と意気消沈な状態に陥りました。自分は祖父(同修)を助けるどころか、むしろ私のせいで、悪い方向に進んでしまったと思い込み、精神的な重圧を覚えました。周りの同修たちが私と法に則って交流してくれたおかげで、少しずつその状態から立ち直ることができました。このような意気消沈した状態は旧勢力が喜ぶもので、師父が見たいものではないと分かります。祖父に害を与えたのは旧勢力であり、すべてが彼らによって按排された邪悪なことです。どんな過去があったとしても、どんな甚大な損失があったとしても、すべては師父が把握されており、私の担うべきものがあればそれを担いますが、現在は師父が按排された道を進み、引き続き衆生のために頑張るためにも、ここで挫(くじ)けてしまってはいけないのです。祖父が亡くなった後、修煉について新たな認識があり、自身の修煉にも変化がありました。それと同時に家庭環境も大きく変わり、いろんなことが新たな段階に進みました。

まずは私の家で学法していたグループが解散した件です。解散のきっかけは家の下に監視カメラが2台設置され、グループ内の同修の安全に配慮したからです。この件について最初は旧勢力の新たな妨害だと思っていました。祖父が亡くなってから、家には祖母(同修)1人だけが残り、時々、孤独な姿が寂しそうに見えました。グループの解散は祖母をさらに孤立させるのではないかと、ネガティブに考えました。

同修との交流で、自身のネガティブな考え方の原因がわかりました。師父は何度も同修を通して、私のネガティブな思考を指摘してくださいましたが、気付きませんでした。私はグループの解散を妨害だと思い、どうやって解決すればよいか分からず茫然としていましたが、それは正念ではありません。なぜ変化は悪いもので、考えもせず妨害だと思い込むのだろうか? なぜ、旧勢力をそれほど大きく見るのだろうか? 師父は悪いこともすべて良いことだと説かれましたが、なぜ、師父を信じずに不安になるのだろうか? 師父は「困難を大きく見れば見るほど、問題が難しくなり、相は心から生じるのですから、問題はますます厄介になります。相は心から生じるという言葉にこの意味もあります。なぜなら、あなたはそのことを重く見ており、自分を見下したからです。それをたいしたことではないと思い、人を救うという大きなことなので、行なうべきことをして、心を落ち着かせ、気に障ること、気に入らないことにぶつかったり、聞いたりしても気にせずに、正々堂々と行なうべきことを行なえば良いのです。邪なものに妨害されず、それに動かされなければ、良くない要素は自分のところから生じることはなく、邪悪は微々たるものになり、皆さんは大きくなり、正念が強くなるのです。本当にいつもこの情況です」[1]、また、「全世界の大法弟子は世の中を全部包容しており、それぞれ一つの範囲を受け持っています。あなたがぶつかったこと、接触したことはいずれもあなたの範囲の中の要素です。あなたの正念が強ければ、あなたは自分の範囲で強くて高くなり、中にある良くないものを抑制することができます」[1]とおっしゃいました。

あることを悟りました。師父は「私は佛教の中の一つの物語を覚えています。釈迦牟尼の故郷は間もなく洪水に見舞われ、村中の人が皆死んでしまうことになっています。そこで、釈迦牟尼の十大弟子の一人が神通力を発揮し、村の人が夜寝ている時、その全員を手に掴みましたが、皆は催眠をかけられたように何も気付いていなかったのです。彼はそれらの人を全員手に掴んでいるので、死なないと思いました。その洪水は予定通りに起こり、村は水没しました。翌朝、彼はもう大丈夫だ、村は水没しても、人は無事だと思い手を開けて見ると、村の人は全て灰燼になっていたのです。彼が修煉して到達した次元には限りがあり、私が言った分子と大きい分子或いは小さい分子との間の関係と同じように、彼は自分がいる境地でしか神通力を発揮できず、よりミクロ的で更に巨大な神、自分の境地を越える神が、自分の知らないうちに何をするか知る術はありません」[2]と説かれました。私はそれがまさに旧勢力がやっていることで、彼らは自分たちがすべてを把握していると思っていますが、本当は師父が遥かにそれらを超えておられるのだと悟りました。

また師父は「それを逆手に取り、ほかでもなく逆手に取っているのです。根本にあるものを旧勢力は変えることができないため、大法弟子は正念を固め、行うべきことをしっかり行い、三つのことを本当にしっかり行うことができれば、誰もあなたを妨害する勇気はありません」[3]ともおっしゃいました。現在の私の理解では、師父は根本的にすべてを把握しておられ、旧勢力が按排したのは幻に過ぎず、師父の法こそが本当の「真」なのです。修煉の道を歩む中で、師父の法の通りに行ない、旧勢力が按排した嘘を信じないのも、旧勢力を否定し正しい道を歩むことなのです。

 仕事の中で大法を実証する

 この2年あまり、私は時間や円満成就に対する執着があったため、ほとんど社会に出て仕事をしていませんでした。大法を実証することにも、いつも目立ちたがっていたのです。これに対して認識が高まるにつれ、若い大法弟子として仕事も必要であると思うようになりました。常人社会の中でしっかり自身を修めていきます。そして、大法の修煉は人から逃げるのではなく、特に正法時期の修煉は、法を実証して衆生を救い済度するものだからです。

 この道で私はまだ歩み始めたばかりで、やるべきことやきちんと行なわなかったことも、たくさんあると思います。修煉のリズムが速くなり、要求も高くなり、修煉においては小さいことはなく、常に主意識を強めなければなりません。人と面と向かって真相を伝えることにおいても、一つの段階が過ぎたら、またいろいろ心配が多くなり、口が開けない状態に戻るので、絶えず正念を強めることで自分を高める必要がありました。

 最近新たに仕事を始めてから、いかに新しい環境を開き、どのようにして同僚たちに真相を伝え、人を救うことができるかを模索していましたが、師父はこの私に最も良いものをくださり、私の背中を押して前に進ませてくださいました。私は常に衆生を救い済度する願望がありますが、考え過ぎることによって執着心が生じ、有為な事を行う傾向があります。このような常人の中で生じた考え方や習慣があるため、何かをしようとするとき、必ず計画したり、按排したりしてきました。修煉する中で私はこれこそが神を排除する本質であり、自我を表現し、師父の按排に抵抗するものだと悟りました。自我と有為の心を放下して、師父の按排に従い、大法に同化して修煉者の基準で自分の境地を高め、強い正念と人を救う願望を持ちさえすれば、衆生が救い済度される方式と機縁を含めて、本当にしてくださるのは師父であると分かりました。

 自分の不足しているところを見つけた私は、過去の自分の尊大ぶりに驚きました。今までいつも人より自分がよく修めていると思い込み、嫉妬心により人が自分より優れたところを認めたくなく、これらのすべての原因は神を排除する「自我」であり、根本的な「私心」です。師父の写真の前に立った私は、師父とかなり遠いように感じ、師父と大法に対する尊敬の心が足りないと感じましたが、どうしてこのようになったのか分かりませんでした。これの出どころは宇宙の中にある「私」であり、尊大ぶる旧勢力の神のように、自分が最もよくできていると思っているからです。これらは正法を利用して自分の目的を実現しようとするのと同じことではないだろうか? 今までの私の状態もこれと同じであり、心のどこかで大法を利用して、達成感を得ようとしてはいなかっただろうか? 師父を本当に師として崇(あが)め、師父の言われている通りにしてきただろうか、と自問自答しました。すると、問題の大きさに驚きました。自分の境地がどれほど低くて、差がどれほど大きなものだったかに気づかされ、本当に恥ずかしさで一杯になりました。これを機に、私はこれからは師父の要求に真摯に従い、前向きに修煉し続けて、自分をしっかりと修めて行こうと思いました!!

結びの言葉

 数か月の短い間にたくさんの出来事があり、私に大きな変化が現れました。真剣に考えたこともない私は、修煉の重みを感じるようになり、教訓をマイナスのものではなく、プラスの面から生かし、「初志貫徹すれば修煉は必ず成就する」[4]の一念を持ち続け、自分を修めることが大事だと思いました。

 次元が限られているため、正しくない所があれば、指摘をお願いします。

 師父、ありがとうございます!

 同修の皆さん、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『欧州法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/19/387531.html)
 
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