同修と協調し 心性を高める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年4月5日】資料点に参加したばかりの時は「以前、心性を修めなかった時とは違い面倒を起こさず、静かにして同修とよく協調していこう」と自分に言い聞かせました。しかし、最初の頃は修煉状態もよく、同修との協調もうまく取れていましたが、しばらくすると、良くない念が無意識に現れ、資料を作ることにはもう慣れているので、同修と比べれば質も高くミスもほとんど無いし、スピードも速いと思っていました。さらに、同修の褒める言葉に歓喜心を起こし、誇りにも思っていました。ある日、真面目に資料を作れたと思っていたら、間違った文字が表示されてしまい、たくさんの紙を無駄にしてしまいました。それだけではなく、製本する際に前後のページが逆になっていました。幸いなことに早めに気づいたので、大きな影響を及ぼしませんでした。

 自分のしたことに驚き、あまりにも恥ずかしく思いました。冷静に内に向けて探してみると、とてもよくない「顕示心」と同修を「見下す心」が、招いたことだとわかりました。さらに内に向かって深く探すと、自分は「良く修めていると思う心」にも気づきました。そして、前のページなのに後ろに入っていることに対して、自分の位置を正しく置いていなかったことを悟りました。そこで、同修の修煉は自分よりしっかり出来ていると認識しました。自分を正しい位置に起き、自分が資料点で仕事をしていくには、同修と協調を取ることが大切です。そのため、同修と一緒に真相資料を作る縁を大切にしなければいけないし、資料点をうまく圓融させなければいけない、と観念を変えました。

 師父は「多くの事はそれほど完璧ではありませんが、大法弟子としてそれは皆さん自ら修煉するように残された余地ではありませんか? まだ行き届いていないところ、またはそれほど完璧ではないと感じたところを自らしっかり行い、それはあなたのために用意されたのではありませんか? 皆さんがまさに自ら行うべきことではありませんか?」[1]と説かれました。

 法理を理解したあと、しっかり心性を守り、人心を修め、純粋な心を持ちながら仕事をするようになりました。わからないことがあったら、謙虚に同修に聞き、積極的に仕事をし、資料点を圓融させます。足りないところに気づいたら、自分が補います。同修の間違いに気づくと積極的に補い直してあげます。そうすることにより、お互いに協調していく中で、資料点がうまく稼働できるようになりました。

 ある日、同修がプリンターも作動してないし、私が休んでいるのを見て、「印刷を止めないで!  続けて印刷してください」と言われました。私は「プリンターはずっと動いているので、機体も熱くなったし、少し休ませました。機械も大切にしないと」と答えました。すると、彼女は「機械も動かさず、何も仕事をしていない人を見るのは辛い。私は毎日たくさんの印刷をしていますが、あなたはほんの少ししかしていないでしょう。早く印刷を続けてください」と大声で言いました。この話に驚き、心の中で「この人の性格は強すぎるんじゃあないの、資料作りも毎日続けているのに、なぜこんなに催促するの? これもやれ、あれもやれと言いつけ、子供じゃないしやるべきことは当然やるわよ」と思ってしまいました。

 人の指摘を受けたくない私は「この心は常人がただ仕事をやっていることだけに過ぎず、今重要なのは自分を修めることではないでしょうか。修煉できている人こそ、威徳もあるし、衆生を救い済度する力も強くなると思います。そうでなければ人も救えないし、いくら多くの仕事をしても無駄だと思います」と不満げに言いました。また情の心で仕事をしていたので、プリンターのインクが無くなったことに気づかず、たくさんの紙を無駄にしてしまいました。私は心の中で反省しましたが、同修は顔が真っ赤になるほど怒りを顕わにして出て行きました。同修が出た後、私はまだその同修のことを「何かに遭遇しても、外に向け、内に向けて探さなければ、まるで常人だよね」と独りごとを言いました。

 師父はいつも何事に遇っても、内に向けてすべきだと教えてくださいました。事後、同修に現れた言行に対して、すべて偶然ではなく、きっと自分の執着心を取り除く時がきたのかなと思いました。自分には問題があるから、師父がこの関を段取りしてくださいました。よく探してみると、自分には人に、「指摘されたくない心」、「褒め言葉だけを聴きたい」という「党文化の習性」がありました。同修は「自分の鏡」だと悟り、現れたすべてのことは自分と関係があると認識しました。さらに探してみると、「人にせめられたくない心」と「メンツを重んじる心」も存在しました。皆修めるべきだったのです。中国共産党に数十年も洗脳され、その党文化にたくさん毒されました。党文化の毒素を解体させ、法の中で絶えず自分自身を正し、正々堂々とした大法弟子になりたいと思います。

 実は「難」や「関」が現れることは良いことです。それはあなたの心性を高めるために起きたことであり、あなたに「人心」があるので、これらの難がやって来たと思います。「難」はみな修煉者の「人心」と「執着心」を取り除くためです。難に遭った時、どのように対処して悟るか、物事に対して、どのように正念で乗り越えるかの試練になると思います。「難」は、法に従って悟るべきで、修煉者の「人心」と「執着心」を取り除くためです。このようにできてこそ、修煉の中で着実に心性を高め、それと同時に次元を高めることができます。

 個人の体得ですので、不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/3/26/384356.html)
 
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