神韻を広める過程の体験
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文/ヨーロッパの大法弟子

 【明慧日本2018年10月22日】今年、私は同修達が結成したグラフィック・デザインチームに派遣されました。私が所属しているチームのメンバーは皆非常に優秀で頼もしい人達です。協調人もしっかりした方です。一見、私の全ては順調に見えますが、私には非常に強大な執着が隠れていました。グラフィック・デザインの仕事をしながら、私は常に「神韻芸術団がミラノで公演を行なうのに、私はデザインを設計するだけで、神韻公演を広める同修の手伝いをしなくてもよいのだろうか?」と考えたのでした。

 私の心は疚しさを感じていました。私はデザインの仕事を担当しながら、別の仕事を望んでいました。このような考えは今の仕事をおろそかにしてしまう結果を招きました。デザインの仕事がない時、神韻公演のチラシを配りに行くのはいいのですが、仕事が忙しい時でも私は神韻公演の宣伝の手伝いに行ってもいいかと協調人に聞きました。私のこの行動は協調人を困らせました。それが原因で、協調人は私に気を配りながら、チーム全体の連携を考えなければなりません、まして、私の仕事が協調人に負担を与えてしまう可能性もあるので、自分の行動はとても身勝手な行動だと思いました。

 グラフィック・デザイナーはとても重要な役割を担っています。デザインがなければ、どんな方法で神韻を表すのでしょうか? 真相資料をどうやって作成するのでしょうか? 劇場はどうやって上演作品を展示するのでしょうか? グラフィック・デザインがなければ、広告も生まれません。観客が自分達の町に神韻がこれから上演されるという情報も得ることも出来ません。しかし、私はグラフィック・デザインという仕事に軽蔑の念を抱いていました。更にもっとまずいことに、自分の仕事を完成させたものの、全く正念がありませんでした。正念を持ってやらなければ、デザインファイルや印刷物に如何なる正の要素も含まれないことになります。ならば、印刷された真相資料はこれらを配っている学習者の助けになるでしょうか。逆に、もし自分が良い状態で、正なる要素がデザインに含まれていれば、この資料を配る学習者の助けになるのです。このような連携をとっていけば、私達は唯一無二の独特な全体が形成できるのです。

 しかし、私は常に自分の仕事以外のことをしようと考えていたため、注意力が乱れ、デザインの仕事に集中することが出来なくなっていました。チームメンバーは互いに支え合い、助け合わなければなりません。なぜなら、それは独立した個人が大きな全体を構成するからです。緊急事態が発生した時、往々にして仕事が協調人に回されます。私の心は疚しい気持ちでいっぱいです。自分が仕事以外の事をしようと思っていたからです。「如何なる代価も惜しまず街に出て神韻のチラシを配りたい!」という思いがありました。私はこの執着に占領され、清浄な気持ちを持つことが出来ませんでした。一見したところ、デザインの出来栄えは良かったのですが、少しも気持ちが込められていませんでした。

 人には皆自分がしなければならない役割があり、協調人を尊敬することは衆生を救い済度することの基本です。皆それぞれの能力を持っていて、優れているところもそれぞれ違います。全て師父が私達に自分の誓約を果たせるように与えて下さったものです。私がデザインチームに配属されたのも偶然ではありません、そこは誓約を交わした時に自分が希望したところであり、冷静な態度で正直な心を持って臨まなければなりません。このような状態で仕事をしてこそ、はじめて衆生を救い済度する作用を果たせるのです。

 夢の中で師父に会う

 神韻芸術団のミラノ公演の間、私は師父にお会いした夢を見ました。それまでに、私は二回、師父にお会いした夢を見ました。夢の中で、師父だと気づきましたが、師父は何も仰らず、時には微笑み、時には厳しい面持ちでした。今回の夢で感じたものは今までよりも強かったのでした。

 夢の中で、私は平原を歩いていました、その平原の先はある山の山頂に繋がっています。一緒に歩いていたのは師父と2人の同修でした。私は師父の傍にいて、2人の同修は私の前にいました。師父は手を後ろに組み、沈黙されたまま私の隣を歩かれました。「自分になぜこのような機会が訪れてきたのだろう! 師父のお供をさせていただくに値するような行ないをしただろうか?」と考えながら、師父について歩きました。

 突然、私の前で歩いていた2人の同修が山頂に向かって行ってしまいました。私は師父と一緒にいたいので、師父の傍で歩き続けました。そのことがとても嬉しかったのです。

 一瞬、師父が私の背中に手を置かれました。すると、今まで感じたことがなかった温もりと慈悲が私の全身に広がっていきました。その慈悲の力はとてつもなく強大で、言葉で表せない程でした。背中で感じたこの感触が軽やかな力で素早く私を前へ押し進めると私は浮き上がり、前方で歩いていた2人の同修に追いつくことが出来ました。そして、目が覚めました。

 私はこの夢を完全に理解出来ませんでしたが、ただ慈悲の力の強さを噛みしめ、慈悲の場に包まれていました。あの数日の間、私は自分に慈悲心が生じたことに気がつきました、世の人々を不憫に思い、必ず世人を救い済度しなければならないというものでした。しかし、心の中で感じた気持ちは自分のその思いよりも1000倍以上も強いものでした、比較のしようがありません。無意識の中で、この慈悲の力の恩恵を受けながら、「自分の真なる慈悲の思いはほんの千分の一程度のものだと師父が私に分からせて下さったのだ」と気づきました。これは私に下さった名利への執着の戒めであり、この夢には更にもっと多くの意味が含まれていると確信しました。

 2晩過ぎて、同修と神韻のチラシを配った時に、私はこの夢を通して師父が私に悟らせて下さったことを同修に話し、師父にお会いした夢を見たことが妥当かどうか疑問に思っていると打ち明けました。すると同修は「師父に会った夢を見たことはとても素晴らしいことではありませんか! どうして心配するのですか?」と言いました。

 一瞬、彼女の言葉が私を目覚めさせてくれました。彼女は正しいのです。これは素晴らしいことです! なぜ心配していたのでしょうか?

 この夢は私が理解できた内容だけの意味合いに限らないと確信しています。時々、私はこの夢を思い出します。そして、神韻公演が終わった後にやっと私はこの夢の本当の意味を理解できるようになりました。

     私の理解では、師父の傍にいることは当然、妙なることですが、しかしそれは修煉の目的ではないのです。私たちの使命は同修と一緒にいること、同修たちと一緒に修煉して、師を信じ、法を信じることです。実際、師父は常に私の傍におられるのです。

 私たちが強大な慈悲の力を持って、はじめて唯一無二の全体が形成出来るのです。また、真に心を開いて、同修の需要に応えられる行動をしてこそ、強大で唯一無二の全体が出来るのです。

 私たちは一体であり、衆生を救い済度するという共通の目標を抱いています。心に同修を受け入れられないことは自分自身を大切にできないことを意味しています。

 夢の中で、師父は強大な善の力を私に与えて下さり、更に同修がいるところに私を押し進めてくださいました。同修と出会えたことは私の人生の中で最も素晴らしいことです。私たちは手を携え協調することではじめて誓約を果たすことが出来ます。互いに善の心を持って接していれば、師父は私たちの昇華を促す必要な要素を与えてくださるのです。

 師父、ありがとうございます!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/9/24/374744.html)
 
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