文╱中国の大法弟子
【明慧日本2018年10月17日】明慧ネットの交流文章『いかなる形の範囲にわたる協調も止めてください』を読んで、私は気持ちが落ち着かなくなりました。なぜなら、私達の地域がこの文章で指摘された広範囲にわたる協調の状況と、とてもよく似っていたからです。少し前まで地元では、ちょうど「連行された同修などによる『重大事件』に対して、発正念をする」という形で、発正念リレーをしていました。広範囲の協調を取るには発正念のような形を取ることが比較的に多く、各拠点の同修は知らせを印刷して伝えて行く、このようなことをしていたからです。
師父は「大法弟子の正念を発することですが、正時に正念を発し、また普段、妨害に遭ったときに正念を発して妨害を根絶することができれば、もう十分です。明らかに妨害に遭ったとき、正念を発して妨害を根絶すればいいのですが、日頃または広範にわたって行わないでください。大法弟子は皆、人を救っており、真相を伝えていますが、ほかのことを行なったらそれは妨害ではありませんか? 奇をてらうのもいけません。これらのことの形を変えてしまえば、大法弟子はもちろん反対します。実は理性をもってこれらのことに対処すればいいのです。必ず冷静でなければなりません」[1] とおっしゃいました。
以前私の地元では、広範囲の発正念が頻繁に行われていました。2日か3日に一度メールを出しては知らせ、各資料拠点の同修が印刷して伝えました。一部の同修の話によると、これらの知らせを集めると相当の量になると言っていました。2015年、師父のこの説法を読んでから、私達はこのようなやり方を止めました。しかし、しばらく経つとまたそれを忘れ、またもこのような広範囲にわたる協調をやり始めました。ですから、同修の『いかなる形の範囲にわたる協調も止めてください』との文章を読んだ時、私は本当に「頭ごなしに一喝」されたかのような感じがしました。
実際、私自身は地元の同修に公認された、あるいは黙認されたような「協調人」ではありませんし、同修の文章の中で取り上げられたあの「総協調人」のような状態ではありませんでした。自分は比較的に控えめに行っており、あまりあっちこっちに行ったり来たりしていないと、自分では思っていました。しかし、今日、同修の文章を読んだ後、やっと自分がやってきたことが「広範囲にわたる協調」と同じであると認識しました。あまりにも驚いたため私は内に向けて探し、自分にはとても深く隠れていた「広範囲にわたる協調を行いたい」という心を見つけ出しました。自分がこのようなことをするのは、地元、あるいはもっと広い範囲にわたり、同修たちを「全体的に形成させたい」という気持ちがあって、そして、心の中には、自分の「価値」を発揮し、「役割を果たす」という自己満足感があったからです。
さらに探ってみれば、これらの事をやる時、ある種の上から目線で、一つの部隊を指揮している満足感がありました。いつも自分の思い通りに、自分の経験や認識通りに物事を運び、同修たちを変えて行こうという心があることに気づきました。さらに、「自称協調人」という心もありました。さらに探って行けば、それは自分が偉い、自己満足をしたい、そして同修の上に立ちたいという心も見つけました。これらの心はとても深く隠れていて、自分も全く意識していないことが分かりました。
同修の文章を読んだ時、私はメールで広範囲に協調しなければ、あれだけの多くの事をどうやって行い、どうやって同修たちを「全体的に形成させるのか」と一瞬、思いました。
このような考えに従ってしばらく考えましたが、しかし突然「広範囲にわたる協調」をしてはならないということは、師父が法の中で要求されているものではないのか! それなのに自分の考えは師父よりも優れていると思っているのではないか? 師父は私達のために考えてくださっているのに、私は自分の立場に立って、極めて限られたわずかな経験で、師父の法にそむいていいのでしょうか?!」と思いました。私ははっと目がさめました。私は今まで全く気付いていない人心をたくさん見つけました。そのため、あの抵触(ていしょく・法律・規定などにふれること。違反)する気持ちは一瞬で消えてなくなりました。「あの抵触する気持ちは、実は傲慢(ごうまん・おごりたかぶって人を見くだすこと)さや自我などの人心の現れで、その裏にはすべて邪悪が潜んでいる」と私は思いました。「これらのものは長い間に形成した観念と認識を固く守っており、そのため、私はなかなか放下できなかった」と改めて思いました。
ある同修とこの問題について交流しました。そして、私達は「十数年来、異なる地域の『総協調人』は、皆に公認された人にしても、あるいは自ら地域で『総協調人』としてやってきた同修にしても、彼らのほとんどが大きな魔難に遭い、一部の人は未だに迫害を受けている」ということに気づきました。そして、これらの「総協調人」は迫害を受ける度に、地域全体に大きな動揺と圧力をもたらし、さらに一部の地域では大勢の同修も巻き添えとなって迫害を受けました。
私達は気づきました。これらの同修は最初に『皆を全体的に形成させよう』という願望があり、そして、『同修のため、全体のために働きたい』という熱意もありました。さらに、彼ら自身もこのようにすることは大法のためであり、同修のための無私な行為で、そして、もっと全体を力強く形成させようと考えていました。連行される前、これらの同修は地域の同修の大量の情報を把握していました。そして、彼らは頻繁に、地域間、あるいは資料拠点間で行き来し、頻繁にメールで連絡を取り合い、地域の様々な事を気にかけていました。彼や彼女らは解決しようとすることや問題があまりにも多くて、そのため、それに相応して隠れた危険性も大きくなり、本当に些細な動きが全体や全局面に影響を及ぼすような事態となりました。
これらの同修が連行された時、彼らと接触している多くの他の同修は皆とても困惑して信じられないと言いました。なぜなら、これらの同修はとても高い能力を持っており、彼らも自分を厳しく要求し、特に彼らから現れていた「無私」と「熱意」は多くの同修に信頼感を与えていました。「彼はどうして連行されたのか? 彼は全体のため、同修のためにあれだけ働いてきたのに」などのような言葉をよく耳にしました。
しばらく前に、地元のある刑務所から出所して来たばかりの協調人の同修と交流しました。邪悪はこの同修を迫害した時、彼をいくつかの省の「総協調人」と呼んで、ひどく迫害しました。もちろん、いくつかの省の「総協調人」というのは嘘でした。表面では、警察は事態を「大きく」して、それによって上からご褒美をもらいたいという狙いがあったのです。しかし、裏では、邪悪は同修の人心の隙きに乗じていました。
交流した時、私は同修に、「あなたの内心には、本当にいくつかの省の『総協調人』になろうという気持ちがあったのですか?」と聞きくと、同修は沈黙しました。その後、他の同修から、「彼はやっと自分が長年ひどく迫害を受けてきた原因を見つけ出せた」ということを聞きました。それは「自分で自分を大きく見てしまい、師父を忘れてしまっていた」ということです。同修はようやく目が醒め、理性的になりました。
実は、あの黒巣(刑務所や労働教養所)から帰ってきた数人の元協調人の同修から、似たような認識を聞きました。今まで、地元、あるいは大きな地域では、自分がいなくてはならない存在だと思っていました。しかし、迫害されて数年後に帰ってみると自分がいなくても、それぞれの地域では何も遅れていないことが分かり、やっと自分の認識が間違っていたと分かりました。大法弟子の全体の中には師がおられ、法があるため、誰かがいなくても何も変わらず、誰がなっても構わないのです。同修は痛ましい教訓を通じて、一旦誰かが、師父と大法を忘れ自分を高く見てしまい自分を同修の上に置いたり、自分のいる地域やもっと多くの地域で、自分がなくてはならない存在だと思ったなら、それこそ非常に危険なことだと気付いたそうです。
自分を放下できず、とても「気にかけている」、他の同修、或いはすべての同修は師父によって管理されていると信じておらず、いつも他人を管理したい、他人を修めたいという気持ちがあれば、それは実質上、自分を大法と師父の上に置いてしまっていることになるのではないでしょうか。邪悪に隙きに乗じられたとても大きな原因は、その強烈な自我のために大法を実証しようとせず、自分を実証しようとして、手柄を独り占めしようとする人心があったのではないでしょうか。自分の力を大きく見てしまい、すべてのことは師父が行われていることを忘れてしまっているのではないでしょうか。
当初、ある「総協調人」から、「大きな事をしよう。すさまじい勢いでやろう」と聞かされました。それは功名心にとらわれ、いつも大きな事をしたいという強烈な自我の現れです。実は大法弟子が真の無私の心で、執着がなく、漏れがないという境地に到達すれば、邪悪は迫害する勇気がないのです。
中国のような厳しく複雑な環境の中で、1人の人があまりにも多くの場所と同修に関わることは、「至る所に華を咲かせる」という原則に合わず、隠れた危険性があまりにも大き過ぎるのです。一人の能力や知恵は限られているため、「総協調人」のような安全原則に相応しくない形は、邪悪に隙きに乗じられやすく、攻撃されやすくなるのです。
「中国という広大な所では、『総協調人』の出現は法に則っていないことであり、それは私達多くの同修の依頼心や崇拝心、お手本を見たい心、そして、当事者の同修の自我とが混ざりあった産物にすぎません。もしかすると、それは旧勢力が遠い昔から、この最後の時期に法を正すことを妨害するため、大法弟子本人と全体を破壊するために按排したものかもしれない」と私は思いました。
師父は私達に「明慧ネットは大法弟子の交流の場であり、対外の窓口でもあります。何かあれば明慧ネットを通じて考えを述べていいのです。広範囲の協調は今、行なわないでください。何かを考える時、くれぐれも安全に気をつけてください」[2] と説かれています。
なにか良い経験や体得、方法などがあれば、私達は明慧ネットを通して交流し、互いに促進し、共に高め合い、あるいは小さい範囲で自分の学法グループ内で交流すれば、私達は道から外れることはなく、しっかりとそれぞれの三つのことを行うことができ、無形の中で力強く全体を形成していくことになるでしょう!
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
[2] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンDCでの説法』