同修を助けることから、考えついたこと
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年9月16日】同修何かがあったとき、私たちは「彼(彼女)を助けてあげて」とよく言います。このような話は妥当な話のように聞こえますが、私たちにはまだ人心があるので、人を助けると同時に、無意識のうちに自分の認識が正しいとか、私はよく修めているなどの人心を交えてることが多々あります。すると、助ける効果にも影響が出てきます。

 さらに、同修の向上と難の突破を助けることを口実に、安全に注意せず、あちこちを回っています。人を集めたり、自分自身を宣伝したりしています。これらは本来の目的に相反し、同修の修煉を阻むことにもなります。

 個人的な考えですが、この世にいる以上、修煉者は同じ大法を修めていますので、互いに修めるところと互いに注意すべきところがあります。私たちは「他人のために」という境界に達するべきです。従って同修が何か難に遭って乗り越えられないときは、助けてあげることは当然のことです。問題はこれらのことについて、どういう態度を取るかです。自分を高い位置に置くのか、それとも謙虚な態度をとるのかで、修煉の境界の差が現れてきます。

 同修だけがこれらのことに遭っているかのように思わず、私たちが同じことにったら、どういう態度を取るかも修煉の一部だと思います。師父が説かれた「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」[1] のように、同修と同じ目線で協力しながら解決することが、最も良い方法だと思います。それは師父が望んでおられることを圓融していることになります。偉そうな態度や表面だけの行為であれば、効果が良くないのは当然です。この心を除去しなければ時間が経つにつれて、自分自身が落ちていくかもしれません。

 発正念の時のことです。自分の功能が普く邪悪を滅していました。茫々たる広い宇宙の中で、自分の功能だけが邪悪と闘っているように感じました。この場面を見て、どこか自分に間違いがあることに気づきました。邪悪を滅することは、1人の修煉者がやることではなく、すべての同修や神々のやるべきことですから。

 なぜ自分の功能しか効いていないかのように見えたのでしょうか。すぐに観念が変わり、「宇宙のすべての正の要素と共に、邪悪がなくなるまで滅します」という一念が生じました。各種の異なる形象の神が、異なる種類の功能を伴って現れ、天界を満たして、まもなく邪悪はすべて滅されました。

 普段私たちに起こったことは、1人の修煉者だけが遭遇したかのように見えていますが、実は修煉者のグループを狙ってそれらは来ています。その中に私たちを高める要素も含まれています。何事も自分のことのように、厳粛に対処するべきだと思います。

 師父の説かれたように、「実のところ、大法も皆さんの経験を豊かにし、大法の精英を造り出しているのです」[2] 

 個人の考えですので、ご参考までにご一考願えればと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父著作:『各地での説法二』『二〇〇二年ワシントンDC法会での説法』
 [2] 李洪志師父著作:『精進要旨』『目覚めよ』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/25/372893.html)
 
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