あらゆる怨恨を修め 無くすことこそ肝要
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2018年4月24日】最近、心性を直撃する出来事がありました。小さなことではありますが、反映された問題はとても大きいものでした。

 昨年、私達の一家は当地区の中国人修煉者の学法する場所の管理を担当し、後期になると、観光スポットの真相資料を印刷する仕事を一時的に協調して行いました。年末の時、自分の都合でこの義務的な仕事を辞退することにしました。引き継ぎにあたり、観光スポットの真相資料が足りなくなるのを心配し、『明慧週刊』(海外版)を1回限り、いつもの倍の4万部を印刷しました。今までは最大でも2万部でした。今回は印刷する部数が多いため、配布する期間も長くなり、1カ月過ぎた頃にようやく配布がほぼ完了しました。この事がそのあとのトラブルのきっかけとなりました。

 私は資料の浪費をしていないことを釈明しましたが、最近、佛学会の責任者は依然として中国人修煉者の公の場で、直接名前を挙げずに「ある人が印刷した資料の数量が多すぎ、読む時期も過ぎてしまい、これは無駄使いになります」と指摘しました。さらに、「印刷された資料は佛学会の審査を受けておらず、甚だしきに至っては、印刷担当者の現地の修煉者たちは中国語が分からないので、隙に付け入られました」等々と言いました。

 私と妻(同修)はこのことを耳にして、最初やはり心の中で穏やかでありませんでした。資源の浪費をしていないし、明慧ネットの資料は佛学会の審査をする必要もなく、印刷した当時の通訳の同修を通して伝達していたし、そして、佛学会の責任者に釈明したことがあるのに等々と思い、内心ではとても不平不満を強く感じていました。

 機会があれば皆の前で事実をはっきりさせ、あるいは佛学会の責任者本人に説明し、話の筋をきちんと通したいと思いました。しかし、外に向かって何かをする必要もなく、偶然の事はないはずだと自分の心の中では分かっていました。そして、妻と交流した時、自分はこう話しました。「私達は他の人に釈明しなくてもいい、心性を高めるチャンスとしよう、このチャンスはとても得難いものだ!」

 今回のことでこの関を乗り越える過程は、私に着実に心性を修める事を味あわせました。それには、苦しみがあり、放下があり、さらには昇華がある辛い過程でもありました。

 私は『洪吟』の中で師父が教えられた「辯少なしに」と「誰が是 誰が非」を思い出しました。また、ある有名なストーリが頭の中に浮かびました。それは、ある和尚さんが良心で孤児を引き取って育てた物語です。このことで、和尚さんは放縦(何の規律もなく勝手にしたいことをすること)な僧と言われ、長年に渡り恥を忍んで重責を担うことになり、最後に真相が明らかになり、そのため修煉者の和尚さんも圓満成就しました。和尚さんが担った巨大な侮辱に耐えていたことに比べると、自分が出会ったのはほんの些細な事に過ぎません。

 しかし、今回のトラブルの中で、単なる恥を忍んで重責を担って、人と同じように争わないことを悟らせただけなのでしょうか? 内に向けて探し、このことが原因で自分は佛学会の責任者にマイナスな考えを形成させてしまいました。それは「怨恨」(えんこん・うらみ)という物質であることに気づきました。それが形成されると、知らず知らずのうちに他人を傷つけるだけではなく、自分をも妨害してしまいます。

 これだけにとどまらず、この間、私と妻が交流した時に、1999年7.20の迫害が始まった当初のことに言及します。当時、私達は中国国内におり、ちょうど大学を卒業して2年目の私は、政治と肉親の情の圧力の下で、かつて1カ月ほど修煉を放棄したことがあります。しかもすべて政府に監視されている中でした。まだ中国共産党のブラック・リストには載せられていない時期で、普通の同修だった妻が訪ねて来ました。その時に私が言った言葉を妻は思い出し、「この数年間、私はこれほどの代償を払っても、最終的にこのままではないか、何か得られたのか?」(自分は現地の補導員で、数年来積極的に法を広め、確かに多くの事をしました)と私が言ったと言いました。

 まさにその言葉は自分の口から出たものですが、自分はすっかり忘れており、妻に言及された時に私自身が驚きました。数年前に国内にいた時、知っている現地の2人の同修は労働教養所で「転向」された後、出所してから相前後して、私に同じような言葉を言ったことがあります。彼らは大法を離れた後、今なお戻っていません。最終的には、これらの修煉者は「怨恨」の原因で大法を離れてしまいました。

 今考えれば確かに、1999年7.20の迫害が始まって以来、どれだけの修煉者が自分の修煉を理解しないまま、ひたすらに「修煉」し、ひたすらに大法の仕事をして、多くの代償を払ったにもかかわらず、いつも迫害を受けており、そして、名、利、情に関して、世間に様々な損失をもたらしてしまい、「怨恨」という物質が生まれて増幅し、しまいには、どれだけ多くの修煉者が大法と師父に対する「信」が揺らいだのであろうか。

 また、どれだけの修煉者が病業などの関の中で、その原因を悟らず、ひたすらに三つのことを行い、依然として魔難の中に置かれ、あるいは大法を修煉したから福があるはずだと信じています。しかし、生活上では多くの困難や厄介なことに遭い、同様に「怨恨」という物質が生じ、それが原因で大法に対する確固とした「信」とだんだんと遠ざかっていったのであろうか。

 また、最近の10年間、どれだけの修煉者が、師父が法を正す時間を説法されたことを待ち望んだ結果、「怨恨」が生じたのであろうか。

 この「怨恨」する対象は、自分に親切にしてくれなかった常人かもしれず、家族、同修かも知れず、自分を助けてくれなかった機関や部門かも知れず、例えば国連難民署、中国国内の真相が分からない部門、時には具体的な対象が存在しないかもしれず、あるいは天地を怨恨し、甚だしきに至っては自分を怨恨してしまい、さらに最も危険なのは誤って、師父までをも怨恨し、大法までをも怨恨してしまいかねません。

 ミラレパの修煉のストーリを、多くの同修は聞かされたと思います。修煉というのは手本がなく、万事は全て因縁であると私達も法の中から知っています。これは大きい所から見た場合ですが、しかし、私達が気づきにくいのは、日常の修煉の中でうっかりして見逃しやすいことです。これらは全て自分を高めるチャンスであると同時に、長い間の少しずつの積み重ねにより、各種の「怨恨」を生じやすいのです。それには愚痴をこぼすことや、怨恨、不満、憤り、不公平、不平等、見下す、嫉妬、外に向けて他人のことをとやかく言う、誰が自分の目障りな存在であるとか、ある事に対して気に食わず不満を訴えるなどを含め、すべてこの類のものです。これらの物質は日々蓄積され、火山のようにいつでも爆発する可能性があり、自分に多くの面倒をもたらすだけではなく、間違いなく修煉に影響してしまいます。誰が「怨恨」を持って天上に行けるでしょうか! それは本当に宇宙大戦になり得ます。

 では、問題に出会った時には、どのように対処したらいいでしょうか? 自分を高めるチャンスとして内に向かって探し、「怨恨」という物質を取り除き、昇華して圓満成就に向かうのか、それとも引き続きその次元に留まり続け、自分を高めるチャンスを諦めるのかの違いです。これは私の個人的な体得ですが、あらゆる怨恨を修め無くすこと、すなわち「真・善・忍」に同化し、無辺の法理に従うことこそが一番肝要で、最大で最良の方法であると私は思いますが、皆さんはどう思われますか!

 最後に、以下の経文を書き出して、同修の皆さんと互いに励まし合いたいと思います。

 「境界」

 「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[1]

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/3/27/363391.html)
 
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