厳粛に自問する 「私は修煉者でしょうか?」
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文/中国の青年弟子

 【明慧日本2018年4月20日】小さいときから家族について自然に修煉し始めた私は、大学に入ってから寮に住むようになったため、帰省時を除き、学法煉功もほとんどしなくなりました。身体に重い病業(迫害)が現れてから私はやっとことの重大性に気づき、自分には修煉というすべきことがあることを思い出しました。今思えば、当時の私は自分が修煉者であることをはっきり認識していなかったため、行なっていた如何なる努力も、再び迫害に遭わないためのもののようでした。

 先日、ある同修は司会した取材番組の中で、自分が修煉を始めたとき、師父の写真の前で厳かに跪き、3回お辞儀をしてから「師父、私は今から修煉を始めます」と申し上げたことを聞き、私は不思議に思い、ひいては高を括り、「そうする必要はあるの? 修煉したいならすればいいじゃない。誰も止めはしないし、なんでそんな大層なことをやるの?」と考えました。

 今やっと気づいたのですが、まさにこれが私の問題の所以です。小さい時から家族について自然に修煉し始めたのが原因かもしれませんが、自分にとって修煉のスタートという明確なものがありませんでした。しかし、これは自分がいい加減に生きてきたことに対する言い訳にはなりません。成人になった今、自分は日々何をしているかはっきり分かっているはずです。以前、ある青年弟子がインタビューの中で、自分の修煉のきっかけを語る動画を見たことがあります。彼女も幼いときから母親と一緒に修煉を始めましたが、成長していくにつれて、常に自問していたそうです。「私は何のために修煉しているのか? 母に言われたためなのか、あるいは本当に自分自身が修煉したいのか? 修煉の道を選んで正しかったのか?」

 私のもっとも基本かつ重大な問題はこれです。今まで私は一度も、なぜ修煉しているのかと真剣に自問したことがありませんでした。「ただ単に両親が修煉しているからなのか? 大法がひどい迫害に遭わされてからも修煉を諦めなかったのは、ただ単に師父が素晴らしいお方だと感じたからなのか?  今までとってきた行動は理性的な堅持によるものだったのか、それとも感性的な忍耐だけによるものだったのか? もし答えが後者であれば、自分はまだ『人間』のものを保持しているのではないだろうか?」

 今まで、私には「もう自分を常人に混同させてはならない。修煉者の基準に従って物事を行ない、大法に従って自分を修めていくべきだ」という厳粛な気持ちがなく、「これから修煉していくのだ」という明確なスタートもありませんでした。それが原因かもしれませんが、私は師父のお写真を見る勇気が滅多になく、魔難に遭っても師父を思い出すことができませんでした。

 1年ほど前に、とてもはっきりした夢を見ました。ある場所に、とてつもなく大きな香炉(宝鼎と呼ぶべきかもしれない)が置かれていて、多くの青年弟子はそこで線香を捧げていました。私が知っている何人かの子供弟子も線香を捧げましたが、私だけ何回やっても成功しませんでした。私は多くの線香を手に握り、そこから長さが揃っているものを3本選ぼうとしましたが、なぜか毎回線香の形が悪く、終いには手に取るや否や折れてしまい、「なぜ品質がこんなに悪いのだろう」と心の中では愚痴までこぼしました。他の人は随意に線香を手に取り、1回でスムーズに線香を捧げてから喜んで離れていきました。しかし、私は何回やっても失敗し、終いにはまともな線香が1本も残りませんでした。焦り出した時、師父が皆さんの焼香の様子を見に来られているのを見ました。師父が来られているので、泣きたいはずの私はどうしても泣けず、無理やり数滴の涙を絞り出しただけでした。師父は私のそばに来られて、状況を聞かれてから温和な笑顔でこうおっしゃいました。「手放していいよ」。お声はそれほど高くありませんでしたが、雷のように耳に響きました。その夢はあまりにも鮮明だったため、目が覚めた後も師父の笑顔がはっきりと記憶に残りました。当時、自分が真に修煉しておらず、師と法に対する信念が堅くないため、師父が私に「手放したくない人心や執着を放下しなさい」とおっしゃられたとしか悟りませんでした。

 今になってその夢を振り返ってみると、自分の問題は執着しているか否かだけではありませんでした。執着とは、人間が着実に修煉していく過程で絶えず取り除くべきものですが、私は自分が修煉者であるかどうかもはっきり認識していないため、修煉を大切にせず、重視してきませんでした。最近になってやっと「私は中士だ」と言わなくなったものの、実質は何の変わりもなく、修煉しても良いし、しなくても何の差し支えもないような態度をとっています。良くできていれば良しとし(ときに歓喜心もありました)、良くできていなければ仕方がない、構わないという姿勢でした。

 師父にお辞儀をしたり、何かを明言したり、あるいは「これから修煉します」と誓いを立てることは必ず必要とは思いません。それは形式に過ぎず、常人社会でも確かに形式としか認識されていません。しかし、そのような言動は確実な人心の転換と言えるもので、真に自分と常人との違いを認識し、修煉の道を歩む決心がつき、師父の大法に従って各方面において自分を正していく決意の表れでもあります。私にはこのような過程がなく、小さい時からはっきりした自己意思がないまま大人について学法し、心性を厳しく律することもありませんでした。迫害が始まってから、なおさら自分が修煉者であることを心の奥深いところに埋め込んでしまいました。歳を重ねるにつれて、いい加減に生きる姿勢を徐々に改めてきました。今になって、実質、それが旧勢力の按排で、認めてはいけないことだと分かりました。しかし、大きな崖っぷちのこっちから一気に向こう側に跨っていくように、心の転換がどうしても必要です。

 長年来、師父はずっと私を見守り、啓発し、私の認識が高まるのを待っておられました。先日、神韻のプロモーションビデオを見るとき、画面に石の彫刻の仏像がさっと過ぎた後、私の頭には突然あるはっきりした一念が掠めました。「私も佛を修めたい!」

 修煉は非常に厳粛なことです。大法弟子の歩む道は常人と違います。その選択は本人の意思によるもので、それを堅持し、そのためにすべてを犠牲にする決意が必要です。この点を悟ってから、私はこの問題において真に自分を正していこうと考えました。1998年に法輪大法に接し、家族と一緒に修煉してきた私は、長年来多くのことを経験しました。過去を振り返るとき、自分の言動は本当に本当に良くありませんでした。今、師父にこのように申し上げたいです。「師父、私は大法弟子で、あなたの弟子です」。この瞬間から、私はしっかりと自分を修め、師父のお言葉に従い、大法の中で自分を正し、三つのことを良く行ない、師父が授けてくださった万古に出会えないこの機縁を大切にしていきたいと思います!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/4/9/363876.html)
 
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