文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年12月27日】同修の家に行った時、ちょうど同修は家族を怒っていました。私は笑いながら、「あら、何をしていますか? その言葉はよくありませんよ。私たちは修煉者でしょう。忘れましたか?」と言いました。その言葉を口にした時、自分でも恥ずかしくなり、師父が同修の事を通して私に気づかせてくださっているとすぐに気づきました。私も、夫に対して同じように対応しているのではないでしょうか?
その時、師父の法を思い出しました。「いかなるトラブルと出来事が現れても、皆さんに教えたことがありますが、トラブルの当事者双方が自分の原因を探す以外、第三者まで自分を考えなければなりません。なぜ自分はこのことに出くわしたのでしょうか?」[1]と説かれました。
この1年間、私は病業に陥り1日中家にいて、人と接する機会が少なくなり、夫が私の心性を高める相手となりました。私はよく夫と些細なことで喧嘩して、いつも「他人の機嫌を損なうようなことをしてはいけないが、夫を少々怒らせても構わない」と思っていました。そのため、喧嘩になると、私はいつも後先のことを考えず、言いたい放題やりたい放題、決着がつくまで、徹底的にやりました。
特に最近私は家事が出来なくなり、いつもいらいらして、夫に対して八つ当たりをしました。代わりにご飯を作ってくれる夫に、私はあれもこれもと粗捜しをして(夫は脳血栓の後遺症で、手足が不自由で、、ご飯を作ったことがない)、ご飯が柔らかすぎるとか、硬すぎるとか、美味しくないとか、また野菜の切り方、塩の入れ過ぎ、醤油が足りない等と文句ばかり言っていました。
師父は私達に「強辯に遇えば争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉」[2]と説かれました。私は心を静めて法を学びました。長い間、私は後天に形成した観念をずっと取り除く事が出来ず、人と接する場合、何を言っていいのか、言ってはいけないのか、やっていいのか、やってはいけないのかについて、まだ修煉者であることを認識し、法に則って自らを律する事ができますが、しかし、家庭に入ると、修煉者であることをすっかり忘れ、勝手気ままに振る舞ってきました。そのため、私心、怨み心、自己中心的な考え、外に向けて見る習性、闘争心、我慢ができない、他人の気持ちを考慮しない、独りよがり等、あらゆる多くの執着心が現れました。
師父は「修煉の中で捨てなければならない一つ一つの心は、みな一つの壁であり、そこに横たわっていて、あなたの修煉の道をさえぎっています」[3]と説かれました。私はこれらのことを重視せず、今、よく考えて見れば、夫は障害者なのに、彼のことに配慮せず、世話もせず、逆に夫に世話をしてもらい、相当迷惑を掛けているにも関わらず、あらばかりを探して、私の優しい心は一体どこに行ってしまったのか? 私が修めた忍は一体どこにあるのか? と思いました。
私は、人生で初めて誠心誠意夫に謝り、これからはこれらの悪い習性を改め、修煉者らしく振る舞って行くと約束しました。家族に優しくするだけではなく、衆生にも優しくしなければなりません。自分の一言一行を法に則って行うよう自らを律し、自らを正し、師父にこれ以上ご心配を掛けないようにいたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「辯少なしに」
[3] 李洪志師父著作:『精進要旨』「環境」