酷い病業が現れた同修から 生死の放下を推し量る
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文/中国の大法弟子    

 【明慧日本2018年8月5日】私はときどき一部の同修は酷い病業が現れ、旧勢力に隙に乗じられていることを聞き、あるいは見てきました。そして、肉身を失った同修がおり、大いに残念なことだと感じていました。私の次元からですが自分の見解をここで述べ、同修と切磋琢磨したいと思います。

 同修に酷い病業が現れたとき、これは真に生死の関にかかわることですから、いいかげんであってはなりません。関門を乗り越えられないのは、多くの原因があります。生死に直面していることは一種の見えない迫害であり、さらに監禁されることよりもっと厳しいものだと思います。問題が現れたとき、病業中の同修と周囲にいる同修は、以下の面から考えることができるでしょうか。

 1. 自問自省してみてください。真に師を信じ、法を信じているでしょうか? 師父は最良の道を按排してくださったのを信じているでしょうか。最良の道とは真に修煉し、向上し、執着心を取り除くことで、この意味で最良だということで、常人の利益のためではありません。真に「心を徹底的に放下し、れっきとした大法弟子らしくなり、怨みも執着もなく、残るか去っていくのかを師父の按排に任せます」[1]に達することができているでしょうか?

 2.自問自省してみてください。死ぬことを怖がっていませんか? 師父は「生死を放下できればあなたは神になり、生死を放下できなければあなたはやはり人間です。つまりこの違いです」[2]、「もちろん、生死を放下することは、本当に死ぬということではありません。ここで修めているのは、人間の心を取り除くことです」[3]とおっしゃいました。酷い病業がある同修は「旧勢力の按排を否定し、師父の按排だけを認めます」と言ったことがあるかもしれません。しかし、結局は亡くなってしまった同修もいます。師父は見守られていないのでしょうか? 勿論、そうではありません。さらに考えてみてください。魔難の中で、師を信じ、法を信じる度合いがどれぐらい強いのでしょうか。「頭が落ちても身体はまだ座禅している」[4]の境地に果たして達しているでしょうか。死に直面して平然としていられるでしょうか。常人の観念をどれぐらい変え、内に向けて探しているでしょうか。死に対する恐怖心や、それに対してどのくらいの保護を求めているでしょうか。名誉、利益、情の放下、自分を修めることを忘れて、希望だけを師父に託している心がどれぐらいあるでしょうか? 闘争心、嫉妬心、情欲、自分を守り、顕示する心などの人心がどれだけ強く、固持しているでしょうか? さらに、自分をよく修めずして、師父に失望している人がいました。修煉者は死ぬことを怖がって良いのでしょうか。これらの問題は修煉上の多くの漏れの現れです。

 3.自問自省してみてください。生きるのが嫌になったのでしょうか? 一部の同修は酷い病業の苦しみにさいなまれて、早めに命を終えて解脱したいと思いました。これは耐えるのがもう嫌で、自分で修煉の道を自分で按排しようとしています。修煉者はやるべきことが多くあり、どんなに苦しくても、生きることを捨ててしまってはいけないのです。この問題も修煉上の漏れの現れです。

 4. 他の同修は酷い病業の中の同修を助け、その同修と切磋琢磨し、一緒に学法したり、煉功したりして、全力を尽くしましたが、時には効果があまりよくなかったのです。多くの同修は「正念を持つ必要があり、師父の按排に従い、旧勢力を否定し、生死を放下し、内に向けて探しなさい」などとアドバイスしました。これは病業中の同修に対してよく話すことです。考えてみてください。なぜざっくばらんに話せないのでしょうか。直接生死を放下する問題を論ずればいいのです。生死を放下することを言うと、良くないものを求めていると思う同修が多くいます。私は生死の放下が直接に話せるもので、あえて話さなければ、放下とは何なのかも言えないと思います。病業中の同修は苦しんでいて、仕方がなく、なんとかして生き延びたい心や欲がとても強いです。このとき、生死を放下するという問題をまじめに提起し、相手に考えさせますが、一部の状況の下で心の深いところに触れるかもしれません。それで相手は問題の厳重さを認識し直し、内に向けて探し、死に対する恐怖心を見つけ出し、修煉の不足を見つければ、真に生死を放下できます。

 5. 自分に対する大法の要求に達します。私たちは自分の修煉の道がどのように按排されたのか、どのような境界にまで修めるべきかが分からないので、考える必要もありません。ただ、法で自分を厳しく律し、内に向けて修め、使命を果たせば良いです。特に大きな難関に遇ったとき、平然として直面し、全ての執着と人心を放下し、そして生死を放下し、大法弟子なることに努め、自分の使命を果たし、他には何も求めないのです。そうすることしか道はありません。

 以上は個人の悟りで、正しくないところがあれば、同修の指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文 
: 『ロサンゼルス市法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作 : 『米国法会での説法』「ニューヨーク法会での説法」
 [3] 李洪志師父の経文 : 『オーストラリア法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作 : 『精進要旨』「白日の下にさらけ出す」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/4/8/363872.html)
 
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