他人ではなく 自分を修めることが大切である
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文/中国の大法弟子 清浄

 【明慧日本2019年11月7日】1994年に師父の済南での説法の録音を聞いてから、私は幸いにも大法の修煉を始めました。今年82歳になる母は1996年から修煉を始めました。母は修煉する前は多くの病を患い、特に胃病がひどくて病院で注射をしても、薬を飲んでも治らず、ベッドに伏せて大量に血を吐いていました。その時、私は母に「師父だけが、母さんを救うことができます。私と一緒に煉功しましょう!」と促しました。その後、私は母のために『轉法輪』を1冊買い求めました。

 私は毎日、夕食をすませてから自転車で実家に帰り、母に『轉法輪』を読み聞かせました。母はゆっくりですが頭を持ち上げることができるようになり、少量のお粥も食べれるようになりました。

 ある晩、母は寝ているのにボンヤリしている状態の時、誰かがベッドの前に来て、自分の身体の中から太くて長い大蛇を1匹引きずり出して、床に投げるのを見ました。それを見た母は怖くなり、大声で「早く踏み殺して! 早く踏み殺して!」と叫びました。するとその後、大きな足が大蛇を踏みつぶして、力いっぱい引っぱると、大蛇はすぐに姿を消しました。

 翌日、母からこの話を聞き、師父が、母さんの身体を浄化してくださったのだと伝えました。もしかすると、母の身体に蛇の憑き物がいたかも知れません。そして胃病は、その憑き物が原因だったのかも知れません。母が大法を修煉しようとしているため、師父が助けてくださったのです。私はまた母にこの機縁を大切にして、しっかりと修煉するようにと伝えました。

 母はハッと悟り、それっきり胃病が治り健康になりました。身体が軽くなり、冷たいものや熱いもの、酸っぱいもの、辛いものをまた食べられるようになりました。近くの煉功点を教えると母は毎日通い、皆と一緒に学法や煉功をして精進し、心性も大きく向上しました。

 1999年7.20、江沢民のならず者の集団は、法輪大法に対する血まみれの残酷な迫害を始めました。大法の迫害の真相をひと言伝えるために、夫と私は二度北京へ陳情に行きました。その後、留置場に入れられたが釈放されて地元に返されると、職場の部屋に拘束されました。その後、不当な家宅捜索が行なわれ、罰金を科せられ、給料が引かれ、公職も免職になりました。そして、夫は懲役11年の実刑判決を言い渡されました。

 大法弟子に対する気が狂ったような酷い迫害で、修煉環境がなくなり、母と私は精進できなくなりました。

 母は再び病魔に取りつかれて病院に入院して注射をし、薬を飲むようになりました。職場がなくなった私は子供の学費を稼ぐために、様々なアルバイトをしてお金を稼ぎました。そのうち、だんだんと常人と同じようになり、しまいには一般の常人にも及ばなくなりました。2、3年経って、私たちはやっと気づき、再び大法の修煉を始めました。母も再び、少しずつ健康を取り戻しました。

 しかし、母はトラブルに遭遇すると心性を修めることが出来ません。少しでも気にそぐわないと怒り出し、自分を制御することすら出来ない有り様で、精神に異常をきたしたかのように見えます。このような母を見る度に、最初は私も説得していたのですが、だんだんと言い争いになり、そして母を見下げて、反感を覚える時さえありました。

 なぜ母がこのようにずっと繰り返して、私を苦しめるのかと思ったこともありました。時にはわざと言いがかりをつけ、私を怒らせようとしているとはっきり分かりました。これはきっと母に対する私の情が重すぎたので、この情を放下させるためだったのでしょう。

 父がこの世を去ってから、母はずっと私と一緒に暮らし、たくさんの苦しみを味わいましたので、母が一日も楽な時を過ごせなかったのだと思い、私はいつも母に借りがあると自責していました。母はいつも言いがかりをつけてきましたが、私は法理に照らして自分を修めていませんでした。この関は2、3年続き、いつも乗り超えることが出来ず、とても辛い思いをしながら疲れを感じていました。

 昨年のある晩、私は母と一緒に同修の家に行き、坐禅を行ないました。坐禅中「同修は一つの鏡である」という一言が頭の中に入ってきました。そして、師父の法を思い出しました。「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」[1] 、「修煉は自分を修めることであり、いかなる状態が現れても、自分の問題を探さなければなりません」[2] 。師父の法は、一つのランプのように私の心の中を明るく照らしてくださいました。

 私はやっと目が覚めました。もともと私にこのような現象を見せたのは、私の心を修めるためだったと分かりました。私はいつも母親に対してばかり、この方面の考え方が良くない、あの考え方が悪いなどと思っていました。また母の話をよく聞かないという形で、恨む心などたくさんの常人の心が生じました。私はいつも法理を用いて他人ばかりを修めていて、自分を修めていませんでした。

 母の状態こそ私の状態ではないでしょうか! 私はいつも母ばかり見て指摘し、煉功をする時に寝ているとか、一日中モウロウとしていて元気がないとか、それだから、身体の調子が良くならないのよと、相手ばかり見て指摘していました。今、自分に照らしてみて驚きました。もちろん、私は煉功する時に眠ったり、ウトウトしたりはしませんが、自分は母と違うところがあるでしょうか? 

 しかし、私は煉功する時、大法の書籍を読む時、発正念をする時、頭がちっとも休んでいませんでした。まるで海がひっくりかえったかのように、十年前や八年前の昔の出来事まで、何でも湧いてきます。七情六欲、名、利、情のどれを放下できているのでしょうか? 闘争心、恨む心、嫉妬心、つらい思いをさせられたと憎む心、傷つけられたと思う心、ねたむ心、私心、自分が傷つかないように保護しようとする心など、本当にたくさんの心を持っていました。それら全ては生きているもので、他の空間で混み合っていましたが、目を大きく開けて皆、私を見ていました。私はビックリしました。自分は修煉が良くできていると思い、これらの常人の心はもうなくなったと思っていましたが、実は、表面だけを修めていました。根本から本当にこれらの執着心を消去したわけではなく、これほど多くの常人の良くない心を持っていながら、どうやって入静できるでしょうか? 今まで私は法理を用いて他人ばかりを修め、自分自身を全く修めていませんでした。同修を鏡として、自分を照らしていませんでした。いつも他人の欠点や不足ばかりを見ており、多くのトラブルを抱えているのに、悟ろうとしませんでした。

 半年が過ぎ、私は少しずつ自分を修めることが出来るようになりました。トラブルに遭ったら人を指摘するのではなく、内に向かって探すようになりました。すると母にも大きな変化が生じてきました。母は私を見るだけで不愉快になったり、言いがかりをつけたりする事がなくなりました。しかも、私の難しさを理解してくれるようになり、私が容易ではないと親戚に言いました。私たちの間は睦まじくなり、緊張する雰囲気がなくなりました。これは私の心性が向上し、法の基準を満たしたので、周りを正すことが出来たのだと分かってきました。

 もちろん、私にはまだ様々な良くない常人の心が残っています。私は法の中で少しずつ自分を正し、心を修め、師父に付き従って家に帰ります!

 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「時間との対話」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法七』「米国首都法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/28/385643.html)
 
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