86歳の同修と一緒に生活し 共に高め合う
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2019年10月23日】私は今、ある年配の同修・任さんと一緒に住んでいます。任さんは、今年で86歳になり、2年前に息子を亡くし、息子の嫁(法輪功を修煉していない)が引っ越しをして家を出て以来、一緒に住んでくれる同修をずっと探していました。私は海外でずっと一人暮らしをしていたので、ある同修が私に任さんと一緒に住むのはどうかと提案し、私は一つ返事で了承しました。私はこのことが「私」と「自分の心」を修煉で取り除き、他人のことを考えられる生命になれるよう、師父が按排して下さったことだと思いました。

 任さんと一緒に住むようになってから、任さんが修煉上においてはっきりと認識していない法理があることに気づきました。例えば、任さんは高齢なために骨粗しょう症に容易になりやすく、カルシウムを補う必要があり、彼女は定期的に病院へ行き、カルシウム剤の注射や身体検査を行なっていました。

 息子の嫁から電話が任さんにかかってきて、「普段、お義母さんは学法煉功はしてもいいですが、身体に病気があれば、病院に行って診てもらわないとだめですよ。高血圧で病院に診てもらわず、最後には脳血栓で亡くなった人がいたでしょう。それに対して病院で診てもらって、今でも元気に生きている誰それもいたじゃないですか」と言うと、任さんはずっと頷きながら、その通りだ、その通りだと言いました。

 私はそれを聞いて大変驚きました、任さんは正法を正す時期の修煉者としての法理を、やはりしっかりと分かっていませんでした。私は任さんに、「私たち修煉者の身体には病気はありません。身体に病業の症状が出たとしてもそれは本当の病気ではなく、邪悪が妨害しているのです。私たちに執着心があり、法に則った観念でなかった時に、旧勢力はこれらを理由に迫害してくるのです。もし、あなたが自分の問題を認識することができれば、これらのいわゆる病業という状態は、すぐに消えます。これらの状態は、やはり自分が招いたものです」と言いました。

 私は任さんに以前、私が風邪を引きひどい咳の症状が出たのは、自分の正しくない一念により招いたものだと例を挙げました。私は英語の授業を受けている時、数人のクラスメートが風邪を引き、咳をしていましたが、彼らは私の近くに座っていたので、自分にもうつるのではないかと思いました。この恐怖心が本当に風邪と咳の症状を出現させ、この観念が法を正す時期の修煉者が持つべき考え方ではない、と私が悟るまでずっとこの症状は続き、悟った後には完全に消えました。

 私は任さんに「あなたの病気になったら、病院へ行くという概念は、常人の考え方です。医者は修煉者の『病』を治せるのですか? それに普段、あなたが煉っている功の中には、宇宙の中の全ての物質が含まれているのに、あなたはまだカルシウム剤がいるのですか?」と言いました。師父は「あなたの体に現れた病業は、関を乗り越えるためのものであり、見た目は、必ず病業の状態になり、決して神が病気にかかるような現れではありません。それなら、正念で対処すべきです。あなたは修煉者だからです。ですから、それは決して本当の病気ではありません。しかし、その現れ方は単純なものではありません」[1]と説かれました。

 また、師父は「自分で自分自身の最も表面の体を変えている時、自分で一部の業力に耐えなければなりません。しかし、相対的に言えばそれほど多くはありません。法を実証することに大きな影響はありません。大きな困難が現れた時、それはきっと邪悪からの妨害であり、必ず正念を発して根絶すべきです! 今日大法弟子が行っているのは法を実証することであり、最も神聖で偉大なことです。もし大法の事を行なう時、衆生を救い済度するという肝心な時期に、何かが起きたらそれはきっと妨害なのです。自分で理性的にそれを判断すべきです」[2]とおっしゃいました。

 任さんとこの病業の問題について繰り返し交流する中で、私のこの問題に対する認識もますます明確になってきました。修煉の中で大法弟子は、自分のあらゆる面において試練がやって来ます、その中には当然、身体上にもやって来ます。どの試練も私たちが常人の概念を持って対処するのか、それとも神の正念を持って対処するのか、また、師父と法をどれだけ信じているのかを試しており、どの試練も常人か神かという基準で見ています。「病」と認識するならば、それは「常人の念」ですが、「業力」と認識するならば、それは「神の念」であり、「旧勢力による妨害」と認識するならば、それはすなわち「正念」です。

 任さんとしばらく一緒に過ごす内に、私たち二人の間には最初に会った頃のような気をとても遣う、という間柄ではなくなりました。任さんは私と会話する時、突然口調がきつくなったり、態度がとても悪かったり、さらには、私が任さんを手助けする際に命令口調で私に言うようになり、まるで任さんに借りがあるかのようで、任さんと会話したくないと思うことが多々ありました。私はこれらの習慣が、以前に息子の嫁と一緒に住んでいた頃の悪い影響のせいではないかと考えました。なぜなら、息子の嫁と息子は頻繁に口喧嘩をしていて、家の中は穏やかな雰囲気ではなく、お互いに話す時も機嫌が良くなかったからです。私は任さんに対して寬容であるべきで、言い争いなどしてはいけないと思いました。

 しかしある時、任さんの態度が悪かった際に私は我慢をし続けることができず、きつい態度で話しをし、このまま放任してはいけない、厳しく言わなければならないと思いました。しかし数日後、任さんに対して態度が悪かった場面が目の前に思い浮かび、心の中でもつれるように重くのしかかりました。私は内に向けて探し、自分の強固な観念見つけました。それは、強大な執着心で、「悪を以って、悪を治める」です。どうして任さんは中国共産党の党文化のものを私に見せたのでしょうか。それは、私の身体上にある党文化の毒素である、邪悪さや残忍さ、闘争心を取り除くことを手助けするためです。これらの邪党の理念は、長期にわたって中国人に弱肉強食という闘争の哲学を浸透させており、中国人を深く害しています。

 師父は弟子に「如何なる環境においても、如何なる情況においても、トラブルに遭った場合、善良の心、慈悲の心もって全てに対処すべきです。自分の敵を愛することができなければ、円満成就することはできません。(拍手)なぜある普通の人間があなたの気に障った時に、あなたは相手を許すことができないのでしょうか?! なぜかえって、常人のように相手と言い合い、争うのでしょうか? 学習者同士の間も同じではありませんか?」[3]、「実は慈悲は巨大なエネルギーであり、正神のエネルギーなのです。慈悲であればあるほどエネルギーが強く、どんな良くないものも解体されます」[4]と説かれました。

 私は今まで、奥深いところまで師父の説法のこの段を理解していませんでした。また、真に慈悲を以って同修に接していませんでした。任さんは法に則って自分を修めていないため、魔難が耐えず、これは常人が大法の事を行なっているにすぎず、これにより私は任さんが常人のようである、という観念を彼女に対して持ってしまいました。しかし本来は、彼女の法の捉え方が正しいかどうかに関わらず、私は1人の大法弟子として同修に対して、このような観念を持ってはいけなかったのです。師父が一緒に住むように按排された以上、それは絶対に私が修めなければならない道であり、師父の大いなる善意を裏切ることはできません。今となっては、私が彼女を責める時期ではありません。如何なることにも法の中で修めて出る慈悲を以って、彼女が落ちることがないように、高めることを助けなければなりません。

 心理状態を改めて以降、私は口調を和らげ、身の回りで出会う一人一人の人に好意をもって接し、彼らの欠点を見ないようにしました。そうすることによって彼らにはそれぞれ良い一面、善良な一面があることに気付きました。またある時、自分は彼らの優しさにも及ばないと思うことがあり、恥ずかしいことに、自分の心理状態がすぐに対応できないことがありました。良くない心理状態が現れる時は、全て他人に対して良くない観念を抱いている時です。従って他人に対して、観念を生まないようにすれば、自分の心は清らかで純粋になり、慈悲をもって接することができます。

 現在、私は目の前の人に対して出来る限り動じないようにし、また、主導的に彼らに挨拶をし、口調を穏やかにして彼らと交流しています。そうすると、周囲は完全に温和に変わり、お互いに仲良くしています。私が任さんの党文化が含まれている話し方を誠実に指摘すると、任さんも段々と自分の話し方には、悪い習慣が身についていると認識するようになり、そして、これらの党文化の毒素を取り除いていくようになりました。これからも私たちはお互いに気遣い合い、助け合って共に向上し、精進していきます。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』  
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」
 [3] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会の説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/10/15/376331.html)
 
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