師と法を信じることは、修煉の根本的な保証
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年10月5日】私は共産党を熱愛する人々に囲まれた環境の中で成長したため、幼い頃から中国共産党の影響を深く受けてきました。そのために変異された観念は、私の修煉を甚だしく妨げました。もし師父の無量な慈悲と、同修の無私の助けがなかったら、私は大法を修煉するこの万古の機縁とすれちがっていたかもしれません。そうだとしたら、どんなに悲しいことでしょう。

 無神論の観念をやっと破り、自分の次元での法理を分かるようになってから、私は師を信じ、法を信じることができ、全力を尽くして修煉できるようになりました。しかし、後天的に形成された観念は、いろいろな方面から私の学法を妨害しました。学法する時「この言葉の中のこの二文字は要らない。この二文字がなければもっと筋が通る」などなどの考えがよく飛び出してきました。自分でもこれは独善的な考えで、師に対して非常に不敬であり、罪を犯すことだと知っていましたが、どうしてもこのような考えを抑制することができず、自然に飛び出してきて、本当にどうしようもありませんでした。

 これは思想業力かも知れないと思ったこともありますが、しかし、これらの考えは明らかに私心から生じたとも感じましたので、自分は大法との縁が薄いのかもしれない、と痛惜して嘆き悲しみました。大法に溶け込むことができず、大法の一粒子になれない自分が本当に修煉して、圓満成就できるのかと疑いました。

 おそらく機縁が熟したからだと思いますが、本当に「修は己にありて、功は師にあり」 [1] でした。ある日「これは私ではない。どうして私の考えと違うのか、という考えが急に飛び出しました。私は寝る前に常に心から師父を呼びました。師父に対するこの上ない敬虔な念や敬慕する念、感謝の気持ちは確実に心の奥底から出てきたと感じられました。私には師父に対する不敬な考えなど、絶対あるはずがありません。そのような不敬な考えがどうして私でしょうか!

 そこで、私はやっとそれが思想業力だと認識できました。そして師父の説法を思い出しました。「そのほかに修煉者への影響がきわめて大きい、強烈な業力もあり、思想業というのがそれです」 [1] 、「なぜならば他の空間では、すべてのものに生命があり、業も例外ではありません。人間が正法を修煉するには、業を消去しなければなりません。業を消去するとは業を滅し、転化させることです。当然のことながら、業力が承知しないため、人間には難や障碍が現われてくるのです」 [1] 。私は思想業力は背後に隠されているもので、頑固で最後までもがき、人を成就できないようにさせようと企む魔だと確実に感じました。そして私は堅い決意で「強い主観思想(主意識)を持って、それを排除し、それに対抗することができます」 [1] のようにしました。毎回思想業力が出てくると、私はそれを無視し、それは絶対私ではないと決めました。徐々にそれは少なくなり、今はめったに出てこなくなりました。

 思想業力を取り除く過程で、私は次のように認識できました。師父は私たちに法理を分からせるために、文法上では随意でした。しかし自分は師父がおっしゃったように、「常人という次元、立場、思想境地からでは、本当のことを理解できるはずがありません」という状態だったのです。

 私はさらに体験しました。本当に着実に修煉すれば、修煉は決して形式に流され、内包がないものであるはずがありません。少しでも向上すれば、師父が与えるべきものを与えてくださいます。師を信じ、法を信じることこそ、修煉できる根本的な保証であることを私はさらに悟りました!! 師を信じず、法を信じないならば何を修め、何をどう修め、何に頼って修めるつもりですか? 人心をもって、師父と大法に応対すれば、せいぜい人間になるのが落ちであることを悟りました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/14/393294.html)
 
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