修煉して 色欲心を取り除くことへの認識
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年10月2日】個人の悟りですが、人間の体に関して、なぜ昔の修煉界では「人間の体が一番怖いものだ」と言われていたのでしょうか。なぜなら、人間の体には人間に対して、一式の認識する反応体系があり、その中に、色に対して認識し反応する機能があります。しかし、色の前に、『視、思、触、聴、動』などがあり、これらの感覚器官や運動器官により外部の情報を受け取ります。こうして、人の身体や思想に一式の体系が形成され、受け取った情報は『色』の認識に転換され、反応に出てきます。従って、色が性につながる過程は、人類の身体に自動的に完成された部分であり、常人には取り除けません。

 しかし、たとえ色が一般的に正常なものであっても、やはりそれは、『芸術』という名の腐敗した魔性のものにすぎず、さらに言えば、当初は魔の色情でした。もし、受動的に見えたり、聞こえたりしたら、色欲の念を起こさなければいいのです。また、見えても見ないように、聞こえても聞かないようにすれば、自分の体の感覚と色欲の関連を切ることができ、これこそ修煉者が行なうべきことです。特にそもそも、色であるものや腐敗した『芸術』の写真、画像などのものを、自分の修煉が着実であるかをチェックするという口実で、自発的に見てはいけません。

 修煉界には、このような物語があります。昔、魔が少女に化けて、長年修煉している和尚を誘惑しました。魔はあらゆる誘惑手段を使いましたが、その和尚の心は動じませんでした。最後にその魔は、和尚に「もし、私があなたの懐に座って、あなたの心が動じなければ、あなたの修煉の着実さを証明することができます」と言いました。和尚は、これほど長い間修煉してきたので、心が動かされるはずがないと考え、魔の要求を承知しました。しかし、魔が化けた少女の皮膚と接触した結果、最終的に和尚は戒を犯してしまい、一生の修行が台無しになりました。

 私の個人の認識では、まだ円満成就していない時、まだ人間の身体を有しているため、色欲への反応について完全に断ち切ることはできません。私は一時期、もし自分が子供の時のように、美や色に対して何の概念も持っていなければ、どんなに良いだろうかと思っていました。人間の身体の中には、異性や人間の『色』を認識する一式の体系があり、この体系を取り除いても良いものだろうかと感じていました。(人は美人を見ると魅力的だと感じますが、虎は美人を見ても、魅力的だと全く感じません。私の個人の認識では、人間の思想の中に、人間への感知や認識する系統に対して一式の特別な体系が加えられ、そこへ徐々に『情』が加わり、人を制御するようになります)。後に、認識することができたのですが、円満成就していなければ、完全に取り除くことはできませんし、まして完全に取り除けるものでもありません。(当然、修煉が向上すればするほど、この欲は徐々に薄れていきます)。もしどんな誘惑に対しても何も感じなければ、それは神の状態です。従って、修煉者は誘惑の中で自分を制御しなければならず、これこそ修煉と言えます。

 師父は『米国西部法会での説法』の中でこのようにおっしゃいました。「弟子:情の関を乗り越えるたびに、どうしても捨てがたいと感じています。私は最も本質的なことを変えたくない人なのでしょうか?

師:情を自分の理性またはあなたの体の一部と思ってしまえば、それは間違いです。しかし、意識的にどうしても放棄しようとしますが、そこまでできないというのは、無理強いして行うということになります。絶えず修煉し、本を読み、煉功する過程で徐々に本当に法から法を認識するようになります。自らに対して高く要求し、できるだけ良くない考えを抑制し、執着しているものをできるだけ淡泊に見て、排斥すればよいのです。一秒でも基準に達すれば、その部分は既に基準に達したのです。このように絶えず絶えず表面に向かって突破していきます。最後まで全部突破し終え、最後の次元を突破したとき、まったく当初の考え、考え方ではなくなると気づくのです。あなたの思考方式はもともとの思考方式と違っており、それは本当のあなたであり、本当の本性です。現在放下できない考えの全ての全ては皆後天的に形成された観念であり、その観念があなたを邪魔しています。

 この観念以外、人間のこの空間の中にある特定の環境があり、即ち情です。三界の中の全ては皆情にどっぷり漬かっています。あなたは情を離れることができず、あなたはこの中にいます。実は皆さんがやるべきことは、どのように情から離れるかのことです。私は明確に言っていますが、修煉して時間がまだ浅い人にはできないことです。古い学習者が圓満成就するまで完全にやり遂げるのも難しいことです。修煉の中で自分に厳しく要求し、良くないものを取り除くべきです。大法の修煉の中で、全てを変えることができます。絶えず本を読み、普段できるだけ煉功者の要求で自らに要求すれば、あなたに全ての変化をもたらすことができます。なぜならば、大法はあなたを精錬しているからです」

 先程の魔が少女に化ける物語ですが、和尚の了承の上で(自分が欲しいもの、求めるものに誰も関与できません)、少女は裸で和尚の懐に座り、その行為は完全に淫乱なものでした。完全に低次元の要素を使って、和尚の良く修煉できた部分を汚染します。これは魔が、修煉者が法理に対してまだ完全に理解していない部分を利用して、修煉者に邪悪な罠を仕掛けたものです。なので、私の理解において、この場合の大事なポイントは、自分の色欲心がどれほどよく修練できているかを主動的にチェックしてはいけないということです。私は色欲心を取り除く時、頭の中で「見ても大丈夫ですよ、その写真を見ることは、自分の執着心を取り除く機会になります。それらの写真や映像を見ても、心が動じなければ、自分の修煉の着実さを証明できます」と考えました。しかし結果として、見ればすべて失敗に終わります。そして、一旦見てしまうと、その後の行動は全く制御できません。頭の中に浮かぶものは、思想業力や魔が仕掛けた罠です。そのチェックも、チェックではなく、明確な汚染です。綺麗な白紙に汚いものをつけると、その紙は汚くなります。これをチェックと言えるでしょうか。

 最近、師父が発表した説法『飛天大学で中国古典舞踊教学の説法』を勉強して、私は、魔や一部の邪霊が、全面的に現代の多くの芸術の表現形式を汚染したと悟りました。多くの映像作品、画像、美術作品の中にこれらの信息があり、一部は直接な描写で明らかに表現されており、残りは不透明に表現されています(しかし、あろうことか高く評価されているのです)。私たち修煉者はそれらをはっきりと区別することは大変難しいため、主動的にこれらの物と関与するかどうかが肝要な問題になります。もし街を歩く時、裸体の広告が目に入るのは区別されます、これは完全に無意識なため問題がありません。街に出かけたり、買い物する時、これらの広告が目に入るのは予想できるものではありません。しかし、映画などの作品は違います。自分がわざわざ映画を見に行って、自分が了承する上で映画の情報を受け取ることになります。特に魔性の要素を見ると、和尚の懐に魔が化けた少女が座っている場合と同じように、無視するのは難しいことです。その上、私たちは一部の魔性のものを見分けることができません。そうなれば、自分で完全に防げないため、自分の空間場に丸ごと悪い物を入れ込んでしまいます!

 特にこの方面の心性があまり高くない修煉者は、苦労して色欲を少し取り除いたのに、映画の一部を見たことによって悪いものに汚染される可能性があり、その後数日間は、自分でもわからない色欲心がまた再燃し、そして元に戻すのがより難しいと感じ、自分でもどうしてこのようになったのか分からなくなるでしょう!

 従って、この方面に問題がある修煉者は、もし仕事で必要がないのであれば、できるだけ映画やテレビを見ないようにお勧めます。特に、中国国内の映画とドラマはすべて見ない方がいいと思います。時間があれば、法を勉強した方がいいのです。これこそ、自分に対して本当に責任を持つということです。

 以上が自分の悟りであり、皆さんと交流したいと思います。もし不適切なところがあれば、ぜひご指摘お願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/27/391954.html)
 
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