文/吉林市の大法弟子
【明慧日本2019年9月25日】私は1999年の「7.20」以前に法を得た大法弟子です。あれから20年以上の時が経ち、思い返せば、恥ずかしい言動の数々ばかりです。「三つのこと」は毎日行なっていますが、日常生活においては、自分を大法弟子として見なしていませんでした。生活の中でも法を師として、常に修煉者の基準で自分を律することでが出来て、初めて真の大法弟子になれるのです。しかし、自分の心を実修することができ出来ていないために、まだまだ様々な執着心が残っており、特に、口を修めることが本当に出来ていませんでした。
先日、孫娘に宿題をさせている時、孫娘がまじめに宿題をせずに遊びたがり、私の言うことも聞かないのを見て、「まじめに勉強しなければ、将来はお父さんみたいにタクシードライバーにしかなれないわよ」とつい口走ってしまいました。その後、孫娘はこのことを両親に話し、結局のところ、娘と娘婿が大喧嘩をしてしまいました。ことの発端は口を修めない私が悪いにもかかわらず、その際、内に向けて自分を探すことを全くしませんでした。
すると、何日間か経過したある日の午後に、急に心臓が痛くなって気持ち悪くなり、そして状態がどんどん悪化していき、冷や汗まで出てきました。ちょうど夕食の支度の時間帯で、吐きたくても吐く気力もなく、立つに立てず、体から力がどんどん抜けていきました。
この時、旧勢力は私の心性上の漏れを掴んで迫害しようとしていることに気づき、漸く警戒し、即座に座禅して発正念を始めました。自分は大法弟子であり、師父が見守ってくださっています! 例え漏れがあったとしても、法の中で正していくので、旧勢力に迫害させる理由として利用されることは、決して許しません! その後、少し良くなるとご飯の支度をし始め、支度しながら内に向けて自分を探しました。
すると、ここしばらく、主人のことが気に入らないことを思い出しました。彼の欠点にばかり注目して、少しも優しく接しなかったのです。娘婿に対してもそうでした。なぜ、娘婿のことをあのように言ってしまったでしょうか? 普段、彼はいつも外食したり、お酒を飲んだり、タバコを吸ったり、友人も皆似た者同士が集まっていて、家事を全くしないどころか性格も良くありませんでした。娘も彼と一緒につらい生活をしており、罵られたり、虐待を受けることもあったので、正直に言うと、私たち夫婦は娘婿のことが嫌いでした。私が大法を修煉していなければ、娘の婚姻がどうなっていたかわかりません。「もしかすると殴られた人が殴った人に借りがあったからかも知れません。二人の間はそれで帳消しになるでしょう」[1] という師父の説法を覚えていたので、何とか今日までやって来られました。
道理は分かっていますが、思想が昇華していないため、常人の理で立ち止まったままです。ですので、人心を放下できず、娘婿への態度も一向に変わりませんでした。内に向けて探すはずでしたが、彼のことを思うとイライラし始めて、体の状態も再び悪化し始めました。これのどこが内に向けて探すと言えるでしょうか? 怨恨心、不平不満に思う心が強くなっていくばかりではないでしょうか。
そして、再び発正念を始めました。まずは、今の状態を病と認めず、修煉者は病気にはなりません。自分は大法弟子であり、師父が見守ってくださっています、と師父にご加持を求めました。私は師が法を正すのを助ける大法弟子であり、いかなる生命も私を試練にかける資格はない、と正念を発しました。そして、内に向けて自分を探したところ、娘婿のことを我が子のように見なしていないことにも気づきました。「気に入らない」という言葉があまりにも深く根付いていたために、昔、彼への親切もすべて上辺だけのもので、娘を安心させるためにやっていたに過ぎませんでした。これは私だけでなく、区別する心理でもあります。そして根本的な原因は、自分は「真」ができておらず、これまで偽りの善意で彼と接していたことがわかりました。これは邪党に植え付けられた党文化がまだ取り除かれていないためであり、時々現れてくるのです。
師父は「人々がその煉しか重視せず、修をおろそかにしている」[1] と説かれました。これからは修に力をいれ、自分を厳しく律しなければなりません。特に、人を区別して対応する心理、怨恨の心理、不平不満に思う心理があってはならないのです。彼が娘と結婚できたのも、きっと私と大きな縁があったからであり、彼を我が子のように真心で、善意をもって心配して助けてあげることで、合格した大法弟子になれるのです。ここまで悟ると、胸を塞いでいたものが消えたかのようにスーとして、息をするのが急に楽になり、まるで何事もなかったかのように体も軽くなりました。探していたことが正しかったので、師父が今回の魔難を解決してくださいました。
今回のことを通じて、修煉は非常に厳粛なことであり、「三つのこと」をする時だけでなく、日常生活においても、常人と接する時や、特に常人と何かトラブルが生じた時は、修煉者としての誠実さ、善良さ、忍耐強さや包容力を兼ね備えなければならないことを悟りました。残されたわずかな時間の中で、大小に関わらず、いかなる出来事においても法理で自分を律し、無条件に内に向けて自分を探し、師父の期待に報(こた)えるよう、しっかりと法を正す進展についていきたいと思います!!
内に向けて自分を探すという宝物を授けてくださった、師父に感謝いたします! 大法と師父の慈悲なる済度がなければ、今日の私もいなかったでしょう。師父の恩恵に感謝いたします!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』