文/海外の大法弟子
【明慧日本2019年9月16日】
明慧の仕事の中での少しばかりの理解
大法弟子として私たちはみな知っていますが、私たちが行なうプロジェクトは私たちの修煉の道です。私は光栄なことに、明慧ネットで翻訳の仕事をしています。そして、明慧で仕事をしているすべてのメンバーと同様に、プロジェクトを行なうことそのものが自分を修めることであり、法に則って向上する過程です。私たちすべてが皆多くの経験をしました。ここでは、最近起きたいくつかの小さな出来事と個人の理解について、皆さんと交流したいと思います。
「転ぶ」ことに関する文章を翻訳して、自分が転ぶ
修煉の中で偶然なことはなく、もちろん翻訳グループ内の誰がどの文章を翻訳しようと偶然ではありません。翻訳者が一字一句まじめに1編の文章を読み、できる限り作者を理解しますので、私個人は「翻訳過程もまた翻訳者と文章の作者が一つの場を形成する過程である」と思います。もちろん、翻訳者として、私はどのように他人の経験を見て理解するのか、他人の経験を自らが私の修煉状態に体現しました。
少し前に、私は文章を1編翻訳しました。大まかにいうと1人の大法弟子が真相を伝えに出かけた時、転びました。その時はひどい転び方をしました。旧勢力がその大法弟子に伝えます、大法弟子の腕は骨折した、と。その大法弟子はすぐに正念を発し、固く師を信じ法を信じ、妨害を排除しました。そしてその大法弟子の体は何事もありませんでした。
その時に私はこの文章を読み、この同修の認識はとても良いと感じました。私も「自分がこんなにひどく転んだ時、こんなにしっかりと行なうことができるであろうか」と自分に問いかけました。数日後、私は外で他のプロジェクトのために資料を送っていました。車を降りたばかりで、数歩しか歩かないうちに、私は結氷した階段で転びました。その時、私の左足は「バキッ」という音がしました。私が地面に倒れた時、左足は内側にねじれ、足の甲は下に向いて地面に貼りついていました。
私はすぐにこの文章を思い出し、すぐに正念を発して立ち上がりました。この文章を書いた同修の助けと私個人の法理に対する認識を通して、私は「旧勢力の按排を必ず全面否定しなければならない!」と思いました。私の頭の中で「転んだばかりだから、車の中はまだ暖かいぞ。実際無理なら、明日また来ればいい」という念がひらめきました。この念が出た後、私はすぐに「間違っている」と気づきました。もし休むか運転して帰るなら、自分がひどく転んだことを認め、衆生を救い済度することに影響しないでしょうか? そしてこれは旧勢力の按排なのではないでしょうか? 一面では旧勢力の按排を否定したいと思いながら、私はどうしてまた、旧勢力の按排に従っているのでしょうか? そこで私は足を出して歩き、もともとの計画通りにその街区で資料を配りました。歩いている時に、左足の足首がずっと発熱しているのを感じて、少しも痛くありませんでした。
帰宅後、私は夕食を食べ終わりベッドに座ると、左足が痛み始めてワナワナとふるえました。私は家族にこのことを話しませんでした。常人の思惟もまたエネルギーであると私は思っています。家族の「心配」と「恐れ」は家族が愛を表現する方法です。修煉者として、私はこのような負の思想と負のエネルギーを生み出すべきではありません。私が腰かけてしばらく休みたいと思った時、夫が「キッチンを掃除する必要があるか?」と聞いてきました。私たちの家の掃除のスケジュールによれば、火曜日の夜は私と夫は一緒にキッチンを掃除する事になっています。私はすべての戸棚の表面とテーブルを担当し、夫は床を担当します。私は高い棚をふくために椅子の上に乗らなければなりません。その瞬間、「キッチンはまだ汚れていない、今週は放っておこう。足がまだ痛いし、これは衆生を救い済度することではない。小さなことだからどうでもいい」と思いました。ここまで考えて私は突然「これはまちがっている」と気づきました。私の頭の中で「旧勢力の按排を全面否定せよ! 修煉において小さな事はない!」という二つの言葉が現れました。私は「転んだために日常生活が妨害されるのも、旧勢力の按排の一つの肯定である」と悟りました。そこですぐに立ち上がり、キッチンの掃除を始めました。
翌朝、私は起きる前に少し恐れを感じました。なぜなら私の足が地面を踏んだ時、なんの感覚もなかったからです。この時、またあの文章を思い出しました。同修は絶えず「師を信じ、法を信じる」を強調していました。しかし私の頭の中ではやはり疑いがあり、私は一面で「師を信じ、法を信じる」と反復して念じながら、また一面では「筋骨まで傷をつけられた怪我を直すには、100日間ぐらいかかる」とも思いました。私はこの時、常人の観念が私に対してまだ大きな影響があることがわかり、正念を発し始めました。突然、私は「奇跡」という二文字を思い浮かべました。
師父は「修煉方法である以上、ただ病気治療と健康保持のためだけではありません。というのも、修煉は高い境地に至るためのものなので、それをもって人の病気を治療すれば、当然奇跡が顕れます」[1] と説かれました。
「奇跡」とは何らかの治療過程を述べる必要はなく、いかなる手法も必要としないのだ、ということを私は理解しました。常人は治療と全快に対して必要な時間や薬、またその他の条件に様々な観念があります。「奇跡」とはこれらの観念を破る法なのだ、と私は理解しました。私は大法弟子であり、私の足は何事もなくそれが私の正常な状態であるのに、私は何を恐れているのでしょうか? そこで私は立ち上がり、左足は全く痛くなく、さらに私も喜んだりする感覚もなく、なぜなら、こうなる前に私はすでに「物事はこのようになるべきなのだ」と悟ったからです。太陽が昇って沈むように、正常な現象なのです。大法弟子に病気はなく、太陽と同じようにあるべき正常な状態なのです。
この時、私は『轉法輪』の中のあの羅漢になれるところまで成就した人の話を思い出しました。羅漢になれるところまで成就した人は、最初は喜んだために、その後はまた喜んではいけないと恐れたために、結果成就しませんでした。私個人は「またもしかしたら、彼は自分を真の修煉者とみなさなかったために、一歩手前まで来ていながら失敗したのかもしれない」と悟りました。人が個人の損得にばかりこだわる時、往々にして自分が欲しいと思うものに対して不確実に感じるために、自分を疑います。1人の修煉者は、果位を得れば自然に得られるべきであり、「ウリが熟れれば、へたから落ちる」ように正常です。もし1人の修煉者が果位のために喜んだり、憂いたりするのであれば、その修煉者は実際果位を「不正常」とみなしており、それならば、その修煉者はやはり自分が修煉者であることを疑っているのではないでしょうか? 同じ理で、大法弟子に病気はありません。それならば、私も「転んだ後、何もなかった」からといって、喜んだり憂いたりする必要はありません。この出来事が私に起ころうが同修の身に起ころうが、私はいつでもその出来事を正常な現象として扱うべきであり、何らかの心を起こすべきではありません。
この出来事の後、私は内に向けて探し、また別のことを悟りました。私が文章を翻訳した時考えたのは「この同修の悟りは本当に素晴らしく、こんなにひどく転んでも、正念で関を乗り越え・・・」ということでした。私はその時旧勢力の妨害を否定したのでは全くなく、それは「同修は真相を伝え人を救い、まったく転ぶべきではない」ということです。師父は旧勢力のいわゆる「試練」に対して、「認めていない」のです。私は「『認めていない』の意味は何だろうか?」と自分に問いかけました。私は今まで「ある角度から述べれば、妨害は全く現れない」と悟っていました。私が文章を読んだ時はこの点を重視せず、同修が関を乗り越えた過程を手本のように見ていました。実際私はこの難を承認し、この関を越えて向上できるのだと思いました。もし私がまだ旧宇宙の理の中にいれば、その旧宇宙の理が私の体に作用を起こします。これはすなわち漏れであり、そしてこの漏れは私の難を促す可能性があります。ですから修煉者の一思一念は非常に重要です。
時間がないことと言い訳
私はここで他の小さな出来事について、同修の皆さんと分かち合いたいと思います。ある時私はあるプロジェクトのために一日中外に出て、帰宅してから食事を終えるともうすぐ10時でした。実際私はその時1編の文章の翻訳をすでに何日も手元に持ち続けていました。私は「今日はもうやめよう、疲れたし遅いし、学法して、発正念して寝よう。今日は翻訳する時間はないので、明日また考えよう」と思いました。その日私はちょうど『明慧ネット十周年法会での説法』を学び、師父が「明慧ネットがしっかり運営できれば、これは皆さんが行なっている最も偉大な人を救う仕事になります」[2] と説かれているのを拝読しました。
この説法を拝読し、突然私には一つの質問が浮かびました。なぜこれは「最も偉大な人を救う仕事」[2] なのでしょうか。私は今までただ「明慧ネットには、私が認識しているよりもさらに大きな意義があるのかもしれず、そこには私がまだ悟ることができない重要な要素があるのかもしれない」と理解できていただけでした。私が行なわなければならないこととは、私の最大の努力をもって、明慧ネットをしっかり行なうことです。
そこで私はその晩やはり文章を翻訳し終わりました。意外だったことは、私は全く意識的に翻訳速度を上げませんでしたが、私が翻訳に使った時間は非常に短かったことです。この時私は師父が説かれた「煉功者が具体的に何かをする時は、彼らの功能が働いているのです」[3] 、「あの高エネルギー物質は別の空間にあり、この空間を通らないので、こちらの時間より速いのです」[3] を思い出しました。
私個人は「私たちが大法のプロジェクトを行なう時、私たちの効能が作用しており、さらに効能は別の空間を通っているのだ」と悟りました。もし私に「このことを行なうのにこれだけの時間が必要だ」という念があるならば、それは観念であり、虚像です。常人は何かの任務を行なうのにどれだけの時間が必要なのかを計画の定着要素とし、これは常人にとっても悪いことではありません。しかしこの観念が、私が大法のプロジェクトの仕事を行なう上で、妨害の作用を働きます。
翌日学法した時『轉法輪』の「でもそれなら、家で食事を作っているわたしが、殺生してはいけないとなると、家族の者は何を食べればよいだろう、と思う人がいるかも知れません」[3] という段落を拝読しました。
私はもともとこの段落を読んだ時少し不明確で、この人は「殺生してはいけないとなると、家族の者は何を食べればよいだろう」と言いますが、これが疑問でした。この時この段落を読んで「常人の理解からすると、常人にも多くの菜食主義者がおり、常人の中で多くの人が市場で食べ物を買う。『私が殺生しない』ことと『私の家族が食べない』ことの間には直接的論理的な関係はまったくない。この人は実際自分の今までの生活方式を変えようと思っておらず、さらに家族の生存を口実にしているのだ。それならば、自分の観念を変えようとしないこのような人が、どうしてすばらしい修煉者になることができるだろうか」と新しい悟りがありました。
それならば、私の昨晩の態度はどうでしょうか? 1人の修煉者として「疲れた」と「時間がない」は実際には口実です。
明慧の仕事の中での修煉の体験はさらに多くあります。今回の原稿募集では、私はこの二つの小さな出来事を同修の皆さんと分かち合いたいと思います。私に対する励ましが、また同修の皆さんすべての励ましになることを希望します。不足のところがあれば、慈悲深いご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
(明慧20周年法会の交流文章より抜粋、 編集)