文/海外の大法弟子
【明慧日本2019年8月15日】海外においても、魔難の中にいる同修の中には病業の人がいれば、交通事故に会う人もいて、家庭内トラブルの人がいれば、グループの中で怪しまれる人もおり、同修に様々な形で現れがあります。どんな形であれ、これらはすべて背後のよくない要素がしでかした魔難です。
師父はおっしゃいました。「これは宇宙が法を正しているのです。この世は、巨大な天体が法を正すことによる衝撃を受けたときの、低次元生命の表れに過ぎません。人間は神に対して何ができるのでしょうか? 外的な要素がなければ、人間は神に何ができるのでしょうか? 人類社会での現れは高次元生命の制御によってもたらされたことに過ぎません」 [1]
ここで二つの例を挙げて、同修と交流したいと思います。
ある同修(以下Aさん)はグループから排除されました。Aさんはグループの中に飛び込めなかったので、いつも同修に傷つけられているとよく言っていました。ある日、協調人から電話があり「Aさんがいると妨害が大きい、プロジェクトに影響します。Aさんを追い出してください」と言われました。前日の夜、私が夢の中で見た光景は、ある人が岩から落下して死亡しました。私は夢から覚めてすぐに分かったのですが、よくない要素がAさんを迫害し始めたのです。私は協調人と交流しました。「私達がAさんを放棄しなければ、旧勢力はAさんに手を出すことができません」と言いました。このあと、私はAさんを見つけて交流しようとしたのですが、Aさんは受け付けてくれませんでした。Aさんの背後にあるよくない要素が私をも妨害し、心臓の震えが止まらず、気持ちも落ち着かず、これではいけないと思いました。
1日が経ち、私は冷静になって考えてみました。いまのAさんの表れは、まさに今の私の状態と同じなのです。ただ、Aさんは魔難が重いだけです。自分の問題だと思った時、師父の按排である日、他のプロジェクトで1人の同修(以下Bさん)に会いました。何年か前に他の同修から聞いた話ですが、Bさんは大法弟子の中でずっと身を隠していた(訳注:修煉者らしくない行動をとっていた)そうです。だから私はBさんに対してよくない観念を持ち、Bさんも私に対して善意がなかったのです。
私が思うには、これは全部旧勢力の按排であり、Bさんがどのような事をしでかしたとしても、どのような誤ちを犯したとしても、大法はBさんを許すことができ、改めるチャンスを与えて下さる、これが大法の偉大さです。旧勢力は人の間違いに乗じて攻撃を始めるのですが、私の考えも旧勢力に符合していました。それがわかった私はさっそく旧勢力の妨害を排除し、あれは本当のBさん自身ではなく、真のBさんはそんなことはしないと思いを改めました。
多くの同修がBさんのことを叱責していましたが、私は自分の考えを改める努力をしました。私はBさんと会う機会がないかもしれませんが、私は自分の邪念を取り除かなければなりません。大法弟子の考えはエネルギーを帯びており、同修の良くない考えが多ければ多いほど、Bさんの空間場に加わり、それが事実になってしまいます。
しばらくして、Bさんと出会った時に、以前のような怖い顔ではなくなり、穏やかで優しい顔になっていました。私の思いが伝わり、暖かい巨大なエネルギーに包まれていると感じました。
魔難の中にいるAさんに私は「ありがとう、あなたのお陰で私は暗闇の中から逃れることができました。私に問題があり、私を悟らせるためにあなたは身代わりになってくれたのですね」と話すと、Aさんは涙を流して私に「ありがとう、私のためにしてくれたのだと分かっていました」と言ってくれました。
その後、同修達はAさんと一緒に学法するようになり、生活においても応援していました。いまのAさんは血色もよく、衆生を救い済度するプロジェクトの中で頑張っています。
もう一人の同修は病業がひどいため、救急治療室に運ばれ、同修達も見舞いに行きました。時間が長くなるにつれて、同修達はそれぞれに事情があり、しかも、入院した同修の変化が見られなかったので自然と行かなくなりました。のちに彼女は退院して帰宅しました。私は毎日彼女の家に行って一緒に学法をし、彼女の問題を見つけた時に、自分の方にも学法の必要性があることに気づきました。それと同時に自分の魔性も暴かれ、彼女を迫害する要素は私の魔性と対応していることが分かりました。
その後、私は神韻公演の期間中に外地へ手伝いに行き、魔難の中にいる彼女に「外地に行っても、私達は毎日電話を通して学法をし、一日たりとも休みませんよ」と伝えました。その同修は時間を守りました。ある日、電話の向こうで苦しそうにしている彼女が「もうだめだ・・・」と言い、その意味は病院に行きたいようでした。私は彼女に「自分で決めてください」と言って、電話を切りました。そこで私は「これでどうやって修煉しますか?」 と思いました。実はこの時、多くの同修が彼女に対して希望を持っておらず、この考え方は正念ではないと思いました。同修は天上の神であり、私は同修の状態を認めず、発正念をして彼女の背後のよくないものを取り除きました。翌日、私はその同修に電話をかけ、結果として何にも起きなかった様子で、私に「朝早くから何の用事ですか?」と言いました。
その同修の魔難は、私を修煉させるためだったのだと分かりました。修煉とはとても玄妙なもので、形として見えない中で、自分の一思一念を改めて昇華させなければなりません。師父は「修めるということは人の思想を修めることで、思想の面から変わってくることであり、あなたの思想が純粋になった分だけ、それがすなわち果位なのです」[2] とおっしゃいました。
私の悟りでは、魔難の中にいる同修に対して要求してはならず、同修の身体に現れた魔難をもって自分を探し、そして発正念で魔難を取り除くようにし、それから一緒に学法をして、三つのことが出来るように、同修が魔難の中にいることを忘れるように、いつもと変わらない接し方で接し、差別されていると感じさせない、大法弟子の善なる心と暖かさを感じさせなければなりません。
同修に指摘する時、本心から相手のためを思って指摘すれば、相手は感激の涙を流します。
私達は慈悲心を持って衆生を救い済度できるように、なぜ同修に対しても慈悲の心で対処できないのでしょうか。 修煉の隊列から外れた往年の同修を探し出し、大法の偉大さを実証しましょう。
注:
[1] 李洪師志父の著作:『精進要旨三』「法を正す中で必要なのは正念であり、人心ではない」
[2] 李洪志師父の著作:『 轉法輪法解』「鄭州での説法 質疑応答」