「口を修める」はすべての同修に言えること
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年9月11日】最近、当地区において広域で迫害の現象が現れています。その表向きの原因を追究すれば多く存在しますが、ある同修は正念が強いということを口実に、長時間の電話、またはウィーチャットで連絡を取ったり、甚だしきに至っては携帯電話で、重要なことも同修や真相資料の拠点と連絡を取っています。資料拠点を各地に作ることができず、長期にわたって大きな資料拠点で各種の大量な資料を作って供給しています。一方では資料拠点に携わる同修は消極的に仕事におもむき、もう一方では、他の同修は普遍的に依頼心と恐れる心が依然として存在しており、一方通行の連絡方法ができていません。同修達は資料拠点と重要な協調人の家への出入りの回数が増え、好奇心をもって学法拠点と資料拠点を混同しています。

 迫害が現れたとき、ただ単にどの同修の問題であるかではなく、私たち一人一人は、今回の迫害の中で自分はどのような役割を果たしたのかを内に向けて探してみて下さい。少なくとも自分に問いかけてみて、上で述べた問題の存在は1日か2日だけではないはずです。私達はなぜこのような状態に対して、こんなに長く沈黙していたのか? どんな心に阻まれて、本来の親密で隙の無い同修同志の交流ができないのか? 今回の教訓で本当に心を痛めています。

 そして迫害の発生後、もう一つの長く隠れていた非常に突出した問題が前面に現れており、それは同修間での「口を修めない」ことです。

 最近、突出した現れとしては、同修Aが迫害されたある同修の状況を聞いた後で、B同修に伝え「広げないように」と言い、今度はB同修がC同修に「同修Aさんが誰誰さんのことをああだこうだと言っていましたよ」と言い、B同修も同じようにC同修に「この話を広げないように」と言った・・・、このように「話を広げない」ことに同意した同修は、さらにこの事を伝えていました。皆が「話を広げてはいけない」ことをさっぱりと忘れてしまい、自分の信用を守っていないことを意識せず、信用を失ってしまいました。

 同時に、多くの事は往々にして伝えているうちに、その内容自体が形もなく全て無くなってしまいます。最近、私は同修の間で伝えている話を聞いて驚き、私自身が悲しくなり自責の念に駆られました。なぜなら、自分自身もその中に身を置いていたからです。私はその時の心理状態を思い返し、同修のために良いことだと見えていても、いつも我慢ができず、あるいは意識せずに二言三言話したりしていました。しかし、この背後には顕示心が隠れていました。「私は知っています」と問いただし、自分は本当に知っていたのでしょうか? 「知っている」とはどういう意味でしょうか?

 私は「知っている」という単語を検索してみました。その解釈の一つに、「天と地の道に精通し、人間の原則を知る」という意がありました。どうでしょう、いわゆる「知っている」とは、一種の世間の事を洞察し、自我を目覚めさせ、内心から発した透徹と明晰であることを私は悟りました。それでは、同修の根拠のないうわさによる真偽の確認の取れていない話は、自分が勝手に悟った「知っている」ではないでしょうか? それが違うことは明らかです! 私はわかりました。同修が私に何を尋ねても、明確にして「知らない」と答え、言い伝えは真実とは限らず、伝えてはならず、私達は口を修めなければなりません。

 当地区の「口を修めない」は、往々にして同修の間で、大法を実証するプロジェクトにおいても注意を払わなければなりません。某某同修はどんな資料を保管しているのか、某某同修の家族はどんな人なのかとか、これらの資料は誰々が持って来たとか、某某同修は何を言ったとか、同修の住所とか電話番号を勝手に他の同修に漏らし、あるいは同修の家族に渡してしまう、などなどが含まれます。

 私達は知っていますが、邪悪の盗聴は至る所で使われているから、大したことではないと思って、つい話してしまい、客観的に見ればその言葉の中に、不安全の要素が多く含まれているかもしれません。師父はおっしゃいました。「例えば、明慧に携わる学習者は他の学習者と同じように活動に参加することができず、大法弟子の他の活動にも参加できません。参加しても自分が何のプロジェクトに関わっているかを打ち明けることもできません。何と言っても今は非常時です」[1]だから同修の皆さん、私達はもしこれらの問題において「口を修める」ことができれば、一つ目は全体に円融することになり、二つ目は同修の安全を守り、三つ目は他人の事を考える、これらは私たち真に修める大法弟子にとって、不可欠な部分でしょう。どの角度から言っても、大法を実証するプロジェクトを行なう上において、私達一人一人は確実に自分の言動を戒めなければなりません。

 口を修めない同修は往々にして、物事を聞きたがり、かつ聞くべきではないこと、話してはならないことを認識できず、かえって話を聞くことがよいことだと思い込みますが、同修のことに関心を持つことはいいことでしょうか? 何を聞いていいのか? 何を話していいのか? 心を静めて自分の内を見て下さい。一つは出発点は何か? 二つ目はどのような目的に達することができるのか? 客観的にもたらす効果は何か? 三つ目は達した目的ともたらした客観的な効果は、目下、法を実証する上において、大法が必要としているものでしょうか? いつも口を開く前に、もしも大法と大法弟子に対して責任を負うのであれば、真に修煉者として話すべきかどうかを考えてみて下さい。ただ単に長期にわたり、取り除かれていない後天の習慣と好奇心をもって、聞いたり伝えたりしてはならず、こうすることによって自然とその聞くべきかどうか、話してもいいかどうかは自ら分かるようになり、その必要性がないと思うようになります。話していい事に対して、話す方法に注意することを提案し、まず考えなければならないことは、如何に自分が話したかの言葉の効果に、責任を負わなければならないことです。

 今回の迫害が現れたあと、多くの同修は恐れる心から、伝えられてきた噂に動かされ、参加したプロジェクトの仕事を一時的にストップしてしまい、かえって何も聞いていない遠方または辺境地の同修は平常通りに行なっています。これは私たちにとって考える価値のある問題ではありませんか? 私たちは法の中から修煉者が話した言葉はエネルギーを帯びており、一つの事が多くの修煉者に伝わり、そのことを皆が話し、そのことを皆が考えるならば、それは大きな問題になります。物事を変えてしまう可能性があります。そうなれば、最初からこの事を伝えた同修達は知らず知らずのうちに、悪い事の手助けをする作用になっています。もっと厳しく言えば、法を実証し衆生を救う事において、足元を掘り崩す作用になりかねません。

 師父はこのようにおっしゃいました。「あなたに教えますが、どういう心であれ、大法弟子のプロジェクト、または大法弟子が行なうべきことに対して、足を引っ張る作用を働いたら、あなたは魔の作用を働きました。私が大法弟子であり、多くのことも行なったと思っているかもしれませんが、旧勢力はすべてを記録しています」[2]

 「話す」ことについて口で話しているように見えますが、実際は心が口を指図して話させており、「口を修める」は口を修めるように見えますが、実際は心を修めています。言葉を伝えたり、物事を聞くのが好きな人は、自分の背後にある人心、恐れる心、好奇心、顕示心、・・・、などなどの執着心を見つけ、取り除いてください。その人心の指図がなければ、口は自然と開かない、伝わらないようになります。口を修めることもできます。

 常人の中にこのような言葉があります。「噂話は賢い者にて、止まる」。言うまでもなく、修煉の道を歩んでいる修煉者はそうならなければなりません。同修の皆さんは、「口を修める」ことはそれほど大きな問題ではないと考えているかもしれませんが、私達の一人一人がその中に含まれており、「口を修めない」ことは一人一人がよく考えて、もうここで、自分の所で終わらせましょう!!

 一個人の修煉の過程での浅はかな認識であり、その目的は問題を見つけて、共に高め合うことにあります。 

 法に符合していないところがあれば、慈悲をもってご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』 

 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/24/391836.html)
 
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