私は本当に神の存在を信じているか
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年8月31日】師父の『洪吟五』を勉強し始めてから、一文字一文字が私の頭の中で響き渡っています。特に「創世主」、「神」、「無神論」、「進化論」などの言葉に衝撃を受けたので、同修と交流したいと思います。

 『洪吟五』によって記憶が蘇ったように、「私は神の生まれ変わりだ」という声が頭のどこかで聞こえ、思想回路も鮮明になり、人生の目的や修煉の意義も分かりました。これにより「私は誰?」、「どこから来たのか?」、「一体どこへ行くのか?」という人生における三つの究極の質問の答えも簡単で、さらに明白になりました。この体験を皆さんと交流したいと思ったのも、神の存在を信じないことから信じるようになるまでの過程を、身をもって体験したからです。

 「神を信じない」ことは、修煉において非常に大きな妨害となり、毎日法を読んでも頭に入らず、煉功も体操をしているようで、そもそも、修煉とは何か分からず、自分自身もこのことにすら気づいていません。

 大法に接し、頑張って続けていれば、誰でも奇跡的な体験をしたことがあると思います。しかし、神を信じない観念により、人心は変わっていません。冷静になってよく考えてみれば、これまで神に対する認識があまり鮮明でなく、曖昧のままであることに気づきました。

 法を勉強するとき、師父が説かれたのはすべて真理であり、すべて正しいと思ってはいるものの、実際に常人社会で具体的な問題に直面するとき、すべて常人の観念が作用してしまい、修煉者としてあるべき思想概念は、何一つ出てきませんでした。 

 迫害に対しても、ただ法理に基づき邪悪が人をコントロールしており、世間を迫害しているという認識を持っているだけで、心の底ではやはり人間による人間への迫害であると思っていました。これでは「信じる」と言えるでしょうか。信じるかどうかは感覚に頼るものではなく、実際に行動に移すことができるかどうかが大切です。

 「大覚者たちから見れば、人間になることは目的ではありません。人間の生命は人間になるためのものではなく、元に返るためのものです。人間はさまざまな苦しみに耐えていますが、大覚者はその苦しみが多ければ多いほど良く、債務が早く返済できるものと考えています」[1]と師父は説かれました。

 人は無意識のうちに苦難に対抗しようとしています。これも神を信じないことの表れではないでしょうか。私は幸運にも1996年から大法の修煉を始めました。しかし、残念なことに途中、何年か修煉を諦めていました。それでも、慈悲深い師父のご加護により、再び修煉の道に戻って来られました。

 これまでの修煉の道のりを振り返って、迫害を受けた原因は何だったのか、修煉を諦めた原因は何だったのか。そして、これほどまでに中国共産党を恐れている原因は何だったのかを自分に問いかけました。私が思うには、やはり心の底から神の存在を信じておらず、佛性が人心によって隠蔽されていることが原因ではないでしょうか。

 私は、幼いころから「無神論」や「進化論」を重視する教育を受けてきたため、考え方や思想概念も外部から強いられて、作り上げられたもので、理性をもって自分なりに物事を考えたことがありませんでした。

 初めて『轉法輪』を読んだとき、不思議にすぐ信じることができ、「神って、本当にいたんだ!」と興奮しました。あの時に感じた衝動は、まるで血液を新たに入れ替えたかのような衝撃的なものでした。あの頃の私は、神を信じていたし、修煉に対しても強い決心を抱いていました。実はそれも師父の力であり、法の威力だったのです。

 しかし、常人の面が感性に囚われていたため、人心が強く、考え方は根本から何も変わっていなかったのです。人心を取り除きたくなく、執着心を修めなければ、本当の修煉とは言えず、旧勢力による迫害の中で倒れるのも必然なことでしょう。

 神を信じていないことに気づいてからは、なぜ信じられないのか、どうすれば信じられるようになるのかについて考えました。思想業力による妨害はあるでしょう。しかし、自分の考え方もよくないのではないでしょうか。

 それからは学法するとき、昔のように何もわからず、ただひたすら読んでいくのではなく、目的をもって勉強するようになりました。高次元の生命になるために、理性をもって勉強するようになってからは、知らないうちに法の含意が見えるようになりました。

 無神論を破る唯一の方法は「学法」です。師父は多くの説法の中で無神論を破る事例をあげられました。しかし、私はただの学問、知識としてしか受け止めておらず、法として勉強しておらず、重視しませんでした。

 神の存在を信じていなければ、自ら苦を嘗め、執着心を取り除いて神になろうと精進して修煉するでしょうか? 印刷された文字を法として勉強していけるでしょうか? 師父と法に対して敬意を抱くでしょうか? 

 自分の修煉に責任を持っているなら、自分に問いかけてみてください。「私は本当に神の存在を信じているでしょうか?」、信じていないことに気づいたなら、信じられるように努めてください。学法していくにつれて、だんだんと信じられるようになるでしょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/9/391227.html)
 
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