難聴になった私は 内に向けて探した
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 明慧日本2019年10月15日】私は2019年7月初め頃、突然、左耳が聞こえなくなりました。「数日経てばきっとよくなるだろう」と、あまり気にしていませんでした。しかし、数日経っても、よくなるどころか、かえって状況がひどくなりました。その時、初めて問題の重大性に気付き、修煉者としてこうなるべきではない、きっと何か原因があると思いました。そこで、私はやっと心を静めて内に向けて探しました。すると、次の二つの問題に気付きました。

 一、顕示心

 よく接している同修の中に、耳が遠くて、交流が少し大変な人が数人います。私はよく「〇〇さんは耳が遠いですよ。〇〇さんは全く聞こえないですよ」と噂をして、「自分は少し年が上なのに、まだよく聞こえる」と無意識のうちに顕示心が表れました。この顕示心はとても深く隠れていて、注意深く探さなければ、なかなか気が付かないものでした。実は、そのような顕示心は様々な場面で現れていました。例えば、声が高いとか、相手の話に口を挟むとか、同じ話を繰り返して言うとか、相手に分かってもらえるか心配するとか、自分の長所を他人の短所と比べるなどがありました。このような顕示心は弊害が大きく、必ず修めなければならないと思いました。

 二、ラジオを聞くことが好きだった

 昼休みの時、いつも古典小説や歴史物語をラジオで聞いていました。そのため、知らないうちに、それが執着になりました。自分もこの習慣がよくないと分かって、聞くのを止めますが、しかし、数日後、また聞き始めるのです。こうして、聞いたり止めたりして、徹底的に放下できず、とうとう耳に問題が起きました。難聴は「棒喝」のように、私に「目を覚ませ」と問題の重大性に気付かせてくれました。以前、ラジオを聴くのは大したことではなく、しかも、その内容は党文化ではなく、ただの古典文学と歴史物語にすぎないと思っていました。しかし、このような考えは間違っていました。それらは確かに直接的には党文化ではないのですが、今の中国で、党文化に汚染されていない物があるでしょうか? ましてラジオ局で放送している番組ですから、なおさら問題があるに違いないと思いました。

 「気分転換」と言う考えはもっと間違っていました。修煉者にとって「気分転換」をすることが必要でしょうか? 私達の頭に入れたのは大法ですよ。まさか大法と比べるつもりでしょうか? この問題に気付くと、私は直ちに発正念をしてそれらの悪い物を解体しました。そして、ラジオをしまい、二度と聞かないことにしました。こうして、問題を見つけた2週間後、耳は正常に戻りました。

 今回の教訓は修煉の厳粛性をより一層認識させてくれました。これからの残り少ない時間の中で、私は必ず勇猛精進し、三つのことをしっかりと行ない、師父について家に帰ります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/21/393561.html)
 
関連文章