あえて執着を 放下できるかどうかについて
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師父の新しい説法を学んだ後の感想

 【明慧日本2019年8月2日】

 師父が『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』の中で、「あなたの望む次元まで修煉することができる」と説かれました。私は最初にこの言葉を読んだ時、この世のすべての執着を放下する勇気が出せるのかどうか、なのだと理解しました。

 そして、自分自身に「あなたはこの世のすべてを放下する勇気があるかどうか、例えば、娘に学法してほしいという執着があるかどうか、娘の未来に対する不安があるかどうか、夫が幸せに暮らせるのかの心配があるかどうか、親友が自分に対して、どのような感情を持っているのかどうか、これらのことに対して、ずっと執着しているかどうか?」と自問自答しました。さらにまた「身体に対する執着があるかどうかです。そしてここが痛いとか、あそこが痛いとか、いつも心配しています。まだ治らないのか、どうしてこんなに治るのに時間がかかるのかと考えがちです」

 頭の中で、身体のどこそこが痛いと考えること自体が、執着ではないのか、これは私心ではないのか、とやっと認識できました。もちろん他の執着もあります。そしてその時、自分に対して「執着のすべてを放下します! 私は、あえて放下する勇気があります」と言って、あえて聞かせるのです。

 今日また師父のこの説法を読み、また新たな悟りがありました。私たちは天上の主や王です。この世で迫害の真相を伝え、衆生を救い済度することは、釈迦牟尼やイエスが当初行なったことと似ています。ですから、自ら釈迦牟尼のようにこの世で神が行なうことを、あえてやる勇気があるのでしょうか。思想上も神や佛のように、無私無我で完全に他人のために考えられるのでしょうか。

 もしこのように考ることができるなら、衆生に対して私(し)の念は完全になく、それはどのようにして衆生を救い済度し、大法や大法弟子の前で衆生にいかに罪を犯させないかを考えるということであり、それならば迫害の存在があり得るのでしょうか。果して釈迦牟尼は迫害されることを恐れていたでしょうか。あるいは釈迦牟尼はいつも身体のどこそこが痛いと考えていたでしょうか。釈迦牟尼は死ぬことを恐れていたでしょうか。釈迦牟尼は、この世のすべてに執着していたでしょうか。このような執着をすべて放下することができれば、私たちは釈迦牟尼と同じように考え、同じようにやるべきではないでしょうか!!

 以上は、個人の次元による悟りですので、不適切なところがあれば慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/7/22/390362.html)
 
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