「苦を舐めることは悪いこと」という観念を変える
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文/中国の大法弟子

  【明慧日本2019年7月11日】ある日、明慧ネットで河北省の大法弟子が書いた文章で、『もう魔難に抵抗しないで』を読み、深く感銘を受けました。自分の修煉の中で「魔難に抵抗」する行動が、しばしば現れていました。長期にわたって人間が考える「苦を舐め、難を蒙ることは悪いことだ」の観念が、すでに私の骨の髄まで浸透し、根強く植え付けられていました。自分の主意識がはっきりしている時には、「苦を舐める」ことは良いことだと認識できますが、油断をすると些細なトラブルでも苦しく感じ、それは悪いことだと、すぐに判断してしまいます。

    例えば、寒さと暑さに対して、私は人間の観念をずっと完全に変えることが出来ませんでした。そして出かける前に必ず天気予報をチェックし、さらに窓を開けて外気温度を確認し、それに応じてその日の服装を決めています。厚着でもなく薄着でもなく、丁度良い暑さを感じる服装に決めたいからです。すなち快適さを求めて、辛い思いをしたくないからです。

    また、一部の同修は病業の関が現れる時、すぐさま心の中でこれは悪い出来事だと判断し、内に向けて探してみたり、正念を発してみたり、色んな努力をして、この「悪い出来事」を一刻も早く終わらせようと手を尽くしますが、終結させることが出来ません。なぜでしょうか? 考えてみてください。それは執着を取り除くことにだけに着目したからです。「観念」は「人心」です。観念に執着することも執着です。観念を変えないままで、しかもそれを悪い出来事だと見做した時、常人と同じではありませんか。心性が高まっていなければ、どうしてこのことを終結させることが出来るのでしょうか?

    病業の関に置かれた時、周囲の同修達がこの問題に対してどのように認識しているのか、良いことだと思うのか、それとも悪いことと見做しているのか? 皆さんも観念を変えて、ともに向上しなければなりません。

    それゆえに私達は実修において、執着を放下することがとても難しいと感じているのですが、私達の観念が徹底的に変わっていないことがその原因なのです。「執着」は「観念」から生じます。「執着」を放下したければ、まず「観念」を変える必要があります。自分は良いものだと認識しているものを放下しようとしても、放下できますか? 仮に放下できたとしても無理やりであって、心から望んだのではないはずです。徹底的に本当に放下できる境地に至っていません。このことは自分に害のあるものだと認識してこそ、初めて心から放下できるのです。この時こそ、真に徹底的に放下できたことだと言えるのです。もしも、「内心にまだ苦難を受けいれることが悪いことだ」と思うのなら、難儀に遭う時に必ず怯えるはずです。「自分の観念を変えて、苦を舐めることは良いことだ」と思うようになって、初めて喜んで泰然自若(たいぜんじじゃく・何に対してもあわてず、驚かず、落ち着いているさま)とした態度で、難儀を受け止めることが出来るのです。

    ここで、この機会をお借りして、師父の説法を皆さんと復習してみたいと思います。

 師父はこう仰いました。「私はずっと、大法弟子が物事を見るとき、必ず逆の立場から見なければならないと言っています。三界は逆になっていますが、皆さんは正しく歩まなければなりません。常人が良くないと思っているものは、修煉者、ここから離れようとする生命にとって良いものになります。常人と同じ考えであれば、あなたは永遠に常人のままであり、永遠にここから離れることができません。ですから、あなたがぶつかった魔難はちょうど、あなたが向上する機会であり、内に向けて探すことができれば、それはまさにあなたが難関を乗り越え、新しい状態に入る機会になります。なぜこのように見ないのでしょうか? 魔難に遭えば、外に押し出します」[1]

    また、師父はこのようにも仰いました。「自分を修め、あなたが思っている自分の苦痛と感情に対する衝撃、心性に対する妨害などこれらのことをすべて良いことだと思うべきです。あなたは自分のこれらの苦痛、自分の魔難を全部悪いことだと思っていれば、それは即ち常人です。苦しむことは業を償っているのであって、思うようにならないことは心性を高めることができ、常人にとっても実は同じ理です。すべては業を消しているのであって、業を消してから良い来世を得られます。ただ、人間にはそれが分かっていません。修煉の場合、業力を消して、修煉の中で心性が向上し、最後に圓満成就になります。大法弟子にとって、これは最も基本的な法理であり、最も基本的なことです。幾年も過ぎましたが、まだ根本から観念を変えていない人がいます。もう何年修煉したのでしょうか? まだこのように物事を見ることができず、正しく物事を見ることができません」[1]

   修煉者として、今後どんなことに遭遇しても、法の正理(しょうり・せいり・正しい道理。正しいすじみち)を以って問題を直視しなければなりません。まず自分が遭遇したことは良いことだと確信をもち、そして、積極的に、かつ大らかな気持ちでそのことに接します。すでにこのことは良いことだと思うのなら、恐れる心が生じないはずです。そして、平然とした態度でこのことに対処すれば、良いことばかりを求め、難から早く逃れたい心も生じなくなります求めず、恐れず、人心に動じなければ、良い結果を得ることが出来ます。

    例えば、警官が自宅にやって来た場合、警官が家にきたのは真相を聴く機会であり、私達が真相を伝え、世人を救い済度する良いチャンスととらえ、自分を錬磨、自分を高める機会がやってきたのだという事をすぐに認識しなければなりません。また、病業の虚像が現れたら、これは自分の修煉を引き締めて、心性の向上の絶好のチャンスだと見做して、これによって時々刻々自分の考え、一念、一言一行を、法に照らし合せ、随時に自分を正すべきです。旧勢力は何を企んでいるのか、常人の観念ならどう考えるのかを気にしていてはいけません。

  私達がこのように行なうことができれば、師父が按排された三つのことだけに集中することができるのです。私達はより簡潔で、かつ効果的に三つのことだけを行なえば良いのです。

 以上は、現段階での個人の浅はかな悟りですので、不適切なところがあれば、慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇八ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/26/387884.html)
 
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