すべての執着を放下し 笑顔で魔難を直視する
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文/ 中国の大法弟子 

 【明慧日本2020年5月13日】先日、師父の詩の「私は笑う 衆生の覚悟を、私は笑う 大法が伝わり始めるを、私は笑う 渡船の出航を、私は笑う 衆生の有望なるを」[1] を読み返し、新たな悟りがありました。大法弟子の全体から言えば、個人修煉から法を正す修煉に変わりました。それではどのような心理状態で法を正す修煉に臨めばいいでしょうか? 私が思うには良い状態とはすべての執着を放下することで、笑顔で魔難を直視することです。

 常人は苦難に直面した時、笑顔が出ません。同様に魔難の中で常人の心に動かされている大法弟子も、笑顔で魔難を直視することができません。

 常人の中で「手は笑顔の人を殴らない」とよく言われています。もし大法弟子が魔難の中ですべての執着を放下することができ、笑顔で魔難を直視することができれば、往々にして想定外の奇跡が現れるのです。

 ある同修はこのように話しました。彼女は収容所の悪辣な警官の指図で、虎のように狂暴な受刑者数人の暴力を受けて意識がもうろうとなりました。そこで彼女が直ぐに意識したことは、自分は大法弟子であり、自分を殴打している受刑者らはとてもかわいそうだと思い、そして彼女は笑顔で彼らを直視するようにしました。すると受刑者らの暴力は直ぐに止まり、リーダー役はとても不思議に思い、「あなたの笑顔はどこから?」と聞いたそうです。その後この受刑者らは二度と彼女に暴力を振るわなかったのです。

 苦痛に耐えながら自分を殴打している受刑者らを笑顔で直視することができ、根本から言えばこの行為は常人を超えており、神の状態であり、この時一連の変化が起こり、大法が修煉者に授けた法力が現れたのです。正の神も修煉者を加持してくださり、それでも乗り越えることができなければ、師父の法身が手助けをしてくださいます! この時、世間に現れた奇跡は一見、変えられない状態に見えても、不思議に変わるのです。

 私は覚えていますが、ある日、私はパトカーに乗った悪辣な警官に監視されていました。私がすべての執着を放下した後、大法弟子が持つべき状態になり、正々堂々と笑顔で彼らに向かって歩き出しました。結果として警官は慌てて車の向きを変えて逃げました。この時私が深く悟ったことは、魔難に直面した時、神の状態が現れれば、他の空間で警官を操っている邪悪は瞬時に取り除かれます。なぜならば神が恐れますか? 恐れる心がなければ、あなたを恐れさせる邪悪な物質要素は瞬時に解体され、大法弟子の厳かさと神聖さが現れるのです。

 師父は説法の中でよく笑顔になられ、大法弟子が法を正すことにおいて不足を語られている時でも、笑顔で話されました。弟子の私達が笑わない理由がありますか? 苦を楽とするのではありませんか?

 常人の中で修煉している人として、特に取り除かれていない人心が、佛を拝み金銭を求めることによって、(ほかの空間で)偽の佛が出来上がり、その偽の佛の思想は金銭を求めています。修煉者に取り除かれていない人心は、ただ単に一つの人心だけでなく、他の空間において人心によって構成された偽の自分がいます。人心が重ければ、その偽の自分は確実に存在するようになり、真の自分と偽の自分を見分けることは難しくなり、甚だしきに至っては魔難の中で偽の自分にコントロールされていることが分からず、それが真の自分だと思ってしまいます。

 特に真相を伝える中で理屈で納得しない人に対して、口が酸っぱくなるまで説明して彼を救おうとしても、その人は筋の通らない事を言い、甚だしきにはあなたを警察に通報して、あなたを迫害するのです。この時あなたは修煉者の状態で怨恨の心、恐れる心、嫉妬心などの取り除かれていない執着を、きれいに放下できれば、正々堂々と笑顔で彼を直視する事ができるのではありませんか?

 これらの不足、あるいはこれらの不足によって持たらされた厳しい結果について、私は自分に一つのルールを決め、笑顔が出ない時は真相を伝えることを止めることにしました。善のない状態で話した言葉は大法の力を帯びておらず、どんなに道理に適っても、どんなに哲理があっても相手の心を感動させることはできず、逆の作用になってしまいます。

 同様に、私は人に真相資料を渡す時も、笑顔で渡すようにしています。笑顔は人に感染させることができで、笑顔で渡せば相手は資料を受け取り、繰り返し感謝の言葉を口にします。

 しかし、恐れる心を持っていると顔がひきつり、常人は異常に警戒心を持つようになり、何かよくないことを行なっているように思われ、恐れて資料を受け取らなくなります。

 真相電話をかける時も同じです。笑顔で話すと相手は友好的で親しく感じ、あなたが話したことを聞き入れてくれます。あなたの心理状態が不安定であれば、相手は焦り友好的でない状態になります。そのため真相の電話をかけている大法弟子に、目の前に鏡を置くことを提案します。鏡があれば自分が話している時、笑顔で話しているかどうかを見ることができます。

 もちろん、日ごろから精進している大法弟子が平素から楽しそうな顔をしていれば、魔難に出遭うとき自然にすべての執着を捨て去ることができます。今まで修煉に対して厳粛に考えていなかった修煉者、今から力を振り絞って追いかけようとしている大法弟子は、魔難の前で自分の執着をできるだけ放下して、笑顔で魔難を直視し、魔難の中で、まず常人でないことを意識していれば、考えもしなかった収穫を得ることができ、これらの魔難は知らず知らずの内に溶けてなくなります。

 一個人の体得であり、不適切なところがあれば慈悲をもって指摘してください。

 注:
 [1]  李洪志師父の詩:『洪吟』「笑う」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/5/4/404724.html)
 
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