修煉に疲れた同修を見て感じたこと
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2018年4月25日】最近、一部の同修は修煉の道でをずっと走って走って、とうとう疲れたと感じ、「休みたい」と言っています。しかしそのまま休むと、もう起き上がれなくなるかもしれません。

 最近、台湾においても、中国においても、海外においても、修煉者たちは体がだるくて疲れていると私は感じました。「暫く休みたい」という同修もいれば、「自分には余裕な時間があまりなく、能力にも限界があるので、協調人を辞めたい」とストレートに言う同修もいます。

 私は地元で、あるプロジェクトの協調人をしており、時に疲れを感じます。しかし疲れたときに、「私は協調人で、部隊のリーダーだ。私が疲れを訴えてどうする」と自分に言い聞かせています。一般修煉者は「疲れた」と思ってもいいのですが、私がそう思っては絶対にいけません。「無能な将軍の下、兵は疲れ無駄死する」の諺が示すように、協調人が自分の修煉を緩めることで、全体の向上に影響を与えてはいけないのです。まして「忙しい」、「疲れた」、或いは「目下、修煉の関に遭って乗り越えられていない」などの理由で、軽々に「諦める、辞めたい」と言い出してはいけないのです。

 大法弟子である私たちは、長い歳月の中で幾多の宇宙体系に転生して宇宙の各空間で苦しみを嘗め尽くして、最も下にある人間世界に来ました。誰もが多くの苦難を経験してきたため、互いに同修のことを大事にし、互いに注意喚起しなければなりません。各大法プロジェクトの協調人として、師父の按排と要求に従って修煉して、はじめて円満成就できます。師を助けて良い修煉環境を作り、「三つのこと」を良く行うように周囲の同修を率いるのは、我々協調人の責任です。その責任をしっかり果たして、はじめて師父の期待と同修の信頼に応えることができ、はじめて円満成就できるのです。

 師父は『轉法輪』で、「われわれは次のようなことも見てきました。人が生まれた時、ある特定の空間に、その人の一生涯の存在形式があります。つまり、その人の生命のどの時点で、何をすべきなのかは、すべてそこにあるのです。誰がその人の一生を段取りしたのでしょうか? いうまでもなく、もっと高い次元の生命体がそれを行なっているのです。例えば、常人社会において、彼が生まれたあと、家にも学校にも、あるいは大人になれば職場にも、みな彼の存在があり、彼の働きを通じて社会各方面とのつながりが結ばれます。つまり社会全体の構成はすべてこのように配置されているのです。ところがこの生命体が突然亡くなれば、最初に定められた配置の通りにいかなくなり、変化が起こります。そうなると配置を乱した人を、高い次元の生命体は許しません。皆さん考えてみてください。修煉者として、われわれは高い次元へ修煉しようとしていますが、高い次元にいる生命体でさえ彼を許さないという状況になった時、彼はまだ修煉などできるのでしょうか? 彼の師さえ、このことを段取りした高い次元の生命体より次元が低い場合もありますので、彼の師もひどい目に合わされ、みな打ち落とされるのです。考えてみてください。これが並大抵の問題と言えるでしょうか? ですからいったんこのようなことをしたら、修煉はなかなか難しくなるのです」 [1]と説かれました。

 法を正す時期にある大法弟子は、師父によって配置された修煉の道を最後まで歩んで、はじめて円満成就できると私は悟りました。師父は法を正すシステムをすでに手配されたので、修煉者が自分のほしいままに乱してはならず、人為的に苦難を加えてはいけないのです。師父との間に結んだ誓約を果たさなければならず、気の向くままに変えてはいけません。例を挙げますと、例えばある修煉者は現世に生まれると神韻芸術団に入って舞踊を教える、と大昔に師父に約束したのに、現世で彼が約束を破ったとすれば、結局、師父は自ら舞踊を教えざるを得ないことになります。

 周囲のいくつかのプロジェクトの協調人が倦怠状態に陥っていると私は感じました。しかし、他の人の疲れた状態をどうして私に見せ、どうして私に知らせたのでしょうか。同修の振る舞いは鏡のようで、そこに私自身の欠陥も映し出されているのです。自分は協調人としてここ数年来の道を歩んできて、時には私も「疲れた」と感じて、頭に正しくない念が走ったこともあります。例えば、暫く休憩の期間をもらえたらいいな、やりやすい大法のプロジェクトに移れればいいな、長い間溜まってきた家のことを処理する時間があればいいなと思ったりします。そのとき、自分の疲れしか考えていないのです。師父は我々の誰よりも疲れておられるのです。今の貴重な時間を大切にして修煉を高めるべきなのです。中国の大法弟子たち、特に刑務所の中で迫害を受けている同修たちは私よりも疲れており、私よりも苦難に見舞われていることを、私は全く忘れていました! 

 師父の説法を読んで、周囲の同修の不足を目にして、そこから内に向けて探して自分の修煉上の欠陥に気づいた後に、自身の正念の場が強くなく、まだ師父が我々に要求されている「一切の間違った状態を正すことができ」[1]、「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」[1]状態に達していないことが私に分かりました。今後、自身の修煉にもっと力を入れて、もっと精進しなければならないのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/2/21/361973.html)
 
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