大法弟子の信念が試されている
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2019年7月14日】学法する時、皆さんは師父の説法の表面の意味は理解しますが、トラブルに遭ったときの対処はそれぞれです。法に従って行なう同修もおり、法に従わない同修もいます。原因は何でしょうか。師父の法を信じるかどうかの差です。法を信じるなら、法の通りに行ない、法を信じなければ、法の通りに行ないません。

 師父は、「本当に信じるとは何でしょうか? あなたは口先だけで信じると言って、実は心の中では信じていません。それはなぜですか? 本当に信じていれば、あなたの言行は必ず一致しなければなりません」[1]と説かれました。

 学法する時、師父が説かれた法を信じれば、難関がやって来た時、法に従って行なえば、その法があなたの修煉を指導するので、うまく物事を解決することが出来、あなたはその法を本当に得たと言えます。もし、その法の表面の意味だけが分かっても、実際の難関に遭った時、その法の通りに行なわなければ、その法を本当に信じているとは言えず、その法もあなたを指導できず、あなたは本当にその法を得たとは言えません。つまり、大法を信じる程度があなたの修煉の向上の程度を決めるのです。もし、あなたが大法の全体を完全に信じることができれば、どんな難関があっても、うまく対応でき、あなたは神のようになり、あなたは既に円満成就になると思います。大法弟子はなぜうまく対応できないのでしょうか。完全に法を信じることができず、完全に法の要求通りに行なわず、人心で対応すれば、良くない結果になります。

 修煉者は物事に対処する時、基本的に二つの選択肢があります。一つは、法に従って行ない、もう一つは常人の観念で対応するのです。

 修煉する前は、皆が常人です。何かを行なう時、常人の観念で図り、これでよいと判断すれば、それに従って行ないます。観念は世間で生まれ、その基点は「私」です。個人の利益に合えば良いと判断し、利益を失なうと良くないと判断するのです。個人の利益は、名、利、情です。人間の世間は迷いの次元にあり、生命への認識は人間の世間に限られ、親から与えられた生命が死ねば何もなくなるので、生きている内に楽をすべきで、死んだら楽をする機会がなくなると認識するのです。

 法を得た後、人の一生は長い生命のわずかな部分で、人は死んでも肉体だけが死に、本当の命はまだ生きていると分かります。つまり、人は観念にとらわれて一生を過ごし、来るときに何ももってこられず、死んだ時は、徳と業力以外、何も持って行くことができません。

 同修の中には、片方の手で人間の利益を握り、もう片方では神のものを握っています。世間の楽も欲しいし、永遠の天国の幸せも欲しいので、その二つの中の一つを選択しなければならないのですが、なかなか世間の楽しみを放棄できないのです。

 イエスの生涯を描いた映画『キング・オブ・キングス』の中に一つのシーンがあります。弟子を連れて船に乗り海を渡る時、イエスは寝ていました。その時、強い風が吹いてきて、船が転覆しそうになり、弟子は慌ててイエスを起こしました。イエスは目を覚まして、船の先端に行き手を振ると、海面はすぐ穏やかになり、弟子たちも喜びました。イエスは弟子に厳しく、「お前らの自信はどこにあるのか」と聞きました。

 実際、イエスの弟子も強い風をおさめる能力があるのに、彼らは自信がなく、逆に恐怖心が生じました。今の正法修煉の中に、大法弟子に同じような問題があります。

 昔の古人は因果応報を信じ、神を信じ、見えなくても、神や佛、菩薩、地獄、鬼、他の次元の存在を信じました。共産党は政権を奪った後、いろいろな運動をおこして伝統文化を破壊し、唯物論、進化論、無神論などを拡散しました。見えれば本当に存在し、見えなければ、認めないというものです。中国の大法弟子は、このような環境の中で、知らず知らずのうちに、このような観念を形成しました。

 大法弟子は修煉した後、一部の天目が見える大法弟子を除いて、師父が説かれた「大法弟子の神通力は大きい」という法を聞きましたが、自分で見えないので、「見えることは信じる」という観念の影響で、大法弟子の能力についてあまり自信を持っていません。迫害に直面する時、恐怖心が生じやすく、自分を迫害されている普通の常人と見なしたので、共産党も勝手に大法弟子を迫害できるようになりました。

 修煉者の表面は人間の身体ですが、ミクロの次元では神なのです。物事に対処する時、人間と神のどちらを選択するか、自分の一念で決めます。もし師父を信じ、法を信じ、修めてできた部分が自分を主導すれば、正念正行で行なうことができ、神の部分を発揮できます。もし、法を信じず、自分を常人だと見なせば、あなたの神通力は発揮できず、あなたも常人と同じなのです。

 常人なら、どうやって中共共産党に対抗できるでしょうか。中国の大法弟子が長い間、残酷な迫害を受けて、師父を信じず、法を信じなければ、悪人に直面する時、自信もなく、強い武器を持っていても、やられてしまうのは惜しいことではないでしょうか。同修たちが法を実証する機会はそろそろなくなりましたが、私たちは法に基づいて、目の前に現れてきたことがいかに複雑で難しく、旧勢力が按排した魔難がいかに強くても、大法弟子として、自分の威徳を立てる機会ではないでしょうか。正法修煉の最後の段階で、この最後の修煉の機会を大切にして、堂々と神のように、大法弟子の神聖さと輝きを発揮しましょう。

 以上は私の現在の悟りです。適切でないところがあれば、ぜひご慈悲にご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/6/29/389323.html)
 
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