世間の枠から飛び出して 家族や親友に接する
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2019年6月11日】長年の修煉の中で、同修の中にはずっとうまく解決できてないことがあります。例えば、ある同修は自分の夫に「バカ、バカ」と呼んでいることや、同修の間で何かあったら互いに譲らないこと、それに、相手の執着心に執着することなどです。

 私たちは毎日学法をしたり、心を修めたりしていますが、トラブルがあったときなど、正念で対処していないことがしばしばあります。昨年帰省して迎えたお正月の3日に、近隣の人が私の実家にやって来て、母と話していました。だれだれか結婚したとか、だれだれか離婚したとかの話でしたが、私の頭の中に、急にいろいろな場面が現れてきました。

 普通の人は、この世に生まれて家族に守られて成長し、結婚して自分の子供を産み、子供がまた成長して子供が子供を産み、このように一代一代と続いていきます。今大法が広まる時期に、私たちは常人から修煉者になりました。しかし、私たちは常人社会で生活しており、常人の観念や理念などが私たちに影響を与えています。私たちの周りには常人の親友や友達がおり、そして正常な付き合いもあります。もちろん、私たちは修煉の基準で自分を律しなければならなりません。心性の向上や思いやりなど、常に心がけてはいますが、具体的なことを行う時の考え方の根元(ねもと)はまだ常人の中にあります。自分の子供や自分の孫、自分の夫や自分の妻などに対して、自分のものだとか自分の資源だなどと考え、さらには自分と関係がある人の運命をも左右しようとしています。

 私たちは常人の社会環境の中で修煉しているので、通常の行動と表現は常人とほとんど同じですが、単純に心性や境地の面で自分を向上させています。しかし、現実の中での表現には、常に私たちの向上を妨害するものがあると感じます。それは「情」の各面での現れです。「情」は、私たちを落ち着かせず、そして穏やかにさせないのです。つまり私たちの心は人間が世間に対して形成した認識と、それらが生成した堅い観念から飛び出してはいないのです。

 修煉者として、徐々に人間の枠から飛び出して世間を見るべきです。例えば、人の成長する過程ですが、人が生まれて両親に抱っこされていた時、今回の人生に対して、一番縁がある両親と出会いました。大人になると結婚して、妻や夫などの縁に出会いました。また子供を産んで、子供の縁と出会いました。神が設定した家庭という方式で、この社会を維持しています。名、利益、情、業力などは全てがこの生活の中に含まれています。しかし、この世間の「名、利、情」から抜け出そうとする大法弟子に対して、人間にあるべきはずの全ての要素は、私たちが向上する上での抵抗力になります。これに対して、はっきりと認識できたら、私たちは心から世間の「名、利、情」から抜け出すことができます。その時は、家族や友人、あるいは一般の人に対して、「人間の情」で対処するのではなく、「慈悲の心」で対処できるようになるでしょう。

 法を正す中で、師父は全てを掌握されています。私たちは法に照らして、修煉の道をしっかり歩まなければなりません。ですから、私たちは家族や常人、あるいは同修に対する「情」は、必ず取り除かなければならない執着です。穏やかな「慈悲」の前では、人間のもろもろの「情」や「欲望」などは、非常に小さくなり、さらに消えてしまいます。

 私たちの生命の元は天上の神であり、宇宙の法を得るため人間界に降りてきました。大法を得て「人間の情」を放棄して、自分を修めて衆生を救うことは、今の時期に一番大事なことではないでしょうか!

 このことを悟ると、直ちに自分は人から大きな隔たりがあると感じました。そして以前、自分が執着していることに対して心が動じないと感じ、内心はもっと穏やかで、さらに充実と強さを感じました。それは法理上で悟った内在の昇華だと思います。そもそも私たちは、一層の「人間の観念」をかぶせられており、それらを心から認識することによって、真の昇華ができ、その一層の「人間の観念」をすぐに取り除けるのです。その観念を取り除くことは、修煉者がしっかり行うべきことです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/25/385483.html)
 
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