文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年3月19日】法輪大法の修煉の中で善を修める過程は、偽りを除去して真を修める過程であり、忍を修める過程でもあると最近私は心得ました。
私は母の近くに住んでいます。幼いときから、母は私に対して多少厳しいところと冷たいところがあり、私自身も非常に強情なので、そのため、私はあまり母のことが好きではありませんでした。修煉してから、母に優しく接しなければならないという道理が分かり、ずっと礼儀正しく、にこやかに接し、「私に何か手伝うことはないの? あれば遠慮なく言ってね」とよく声をかけていました。実際、家事の手伝いをするといっても、床掃除をしてあげるだけで、母の話し相手になっても、私はただ母の好む話をして相槌を打つだけで、腹を割ってじっくり話したことはありませんでした。
一方、私に対する母の表情はいつも暗く、態度も冷たいまました。一生懸命親孝行しているつもりでしたが、どうして分かってくれないのかと私はとても悩みました。ある日、夫に「私は笑顔で接しているのに、なぜお母さんはいつも不機嫌そうな顔をしているのかしら」と愚痴をこぼしました。夫は「あんたの笑顔は作り笑いなんだよ。心がこもっていないよ」と言われ、私は直ぐに「お母さんに優しく接しているのは私だけよ。ほかの兄弟姉妹はみな面倒みないじゃあないの」と反発しました。
しかし冷静になってみると、夫が言ったことが正しいと分かりました。私はずっと内心から自分を変えることもなく、人を恨み、心から母に同情し、さらに真心を込めて接していませんでした。私は内心から自分を変えていませんでした。表向きはニコニコしていましたが、内心では母を嫌悪していることを夫は見通しており、母もきっとそれを感じていたのでしょう。母が私に対して笑顔を見せないのは無理もありません。心を込めて接しなければ、どんなに優しい言葉をかけても、相手の心を変えることはできず、隔たりを取り除くこともできません。
どんなに甘い言葉をかけても、どんなによくしてあげても、心を込めていなければ、相手のためではなく、ただ形だけの手助けであり、それは偽りではないでしょうか? 芝居ではないでしょうか? 狡猾(こうかつ・悪賢いこと)ではないでしょうか? それは党文化の現れで、絶対に本当の修煉ではありません。
師父は説かれています。「正神の現れはもちろん、低次元の善のない生命のように憚ることなく悪事を働くことはなく、それらの現れは皆善なのです。しかし、この善は変異したものであり、善の背後に執着があります。その善の現れがあるからこそ、造った阻害は最も己を欺き人を欺くものです。法を正さなければ、これらのことは本当に突破しにくいのです」[1]
内に向けて探すと、自分の善は変異したもので、善の背後に執着があると分かりました。表向きにどんなに良く行っても、心が変わらなければ本当の修煉にならず、己を欺き人をも欺くだけです。
師父は「心には慈悲を生み、顔は祥和の意を帯びる」[2]と説かれました。まず内心から慈悲心が生じると、はじめて祥和の表情を帯びることができます。そのような善こそ内から外へ、芯から表へ表して、自然に本物の善となります。『礼記・祭義』に「有深愛者,必有和気,有和気者,必有愉色,有愉色者,必有婉容」とあり、現代文に訳せば「孝行息子で親を深く愛している者には、必ず和気がある。和気のある人は、必ず楽しそうな表情をしている。そういう人はまた、きまって物腰や態度が穏やかである」の意味です。
それから、私は変わりました。母は年を取っていて家事をするのも大変なので、私は買い物、料理、力仕事などをします。また母は台所の掃除をあまりしないので台所も片付けます。母は1人で寂しいので、母に付き添って昔の話をよくし、母が病気になると看病もします。私はいつも心を込めて母に接し、母のためになることをしてあげようと決めました。すると、だんだんと母の顔色が明るくなってきて、私に対する態度も優しくなりました。本当に「慈悲は天地の春を溶かし 正念は世中の人を救う可し」[3]の通りでした。
私たちは真・善・忍を修煉しています。「真」を成し遂げなければ、「善」は偽の善になるかもしれず、「忍」もおそらく表面上の忍になるでしょう。修煉において、極力自分の善を相手に見せるのではなく、修煉を通じて本当の心からの誠実さ、慈悲、正しい考えが生じてきて、やっと人々を救うことができるのです。
師父は説かれています。「慈悲は修煉によってできたものであり、意識して見せるものではありません。慈悲は心から発したものであり、他の人に見せるためのものではありません。また、慈悲は永遠に存在するもので、時間と環境によって変化するものではありません」[4]
実は、偽の善は日常生活のあらゆる方面で現れます。例えば、職場でコツコツと努力しているような振りをして、本当は見せかけだけのずる賢い人がいます。家庭では表面上尊敬し合っている振りをして、心の中では憎んでいる人がいます。同修の間では互いにお世辞を言い、陰では悪口を言います。真相を伝えるとき、熱心に説明しますが、内心では相手を軽蔑しています。よく考えてみると、普段、私たちはこのように偽善的な行動をしていますが、偽の善を警戒し、偽りの部分を除去しなければ、心性は全く向上することができないと思います。
同修間の交流について、自分の感想を話したいと思います。同修が問題に遭遇したとき、善意をもって指摘してあげるのは、本当に同修のために必要なことだと思います。善の心からの行為であれば、善の行為になります。もちろん、話しぶりはできるだけ穏やかでなければなりません。一方、表面では和気あいあいとし、陰でひそひそと悪口を言うのは善ではありません。人によって態度を変えることは偽の善ではありませんか? 心を開いて問題点を指摘することは、相手の向上を助けることではありませんか? それは良いことではありませんか? 真心から相手と向かい合ってこそ、本当の善であると思います。