文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2018年11月15日】常人は耳触りのよい言葉を喜んで聞きたがりますが、修煉者はそうであってはいけません。修煉者の理と常人の理は反対になっています。道理は皆知っていますが、しかし同修に言われたときには、やはりいい気はしません。
数日前、私はAさんの家に行きました。私達は最近、法に基づいて向上する体験をお互いに交流しました。私が内に向かって探すことが出来たことを、Aさんは喜んでくれました。すると、Aさんはある出来事を私に教えました。Aさんは「ある時、あなたが同修の家で新唐人テレビの衛星アンテナを取り付けたことがあるでしょう。その時、Bさんも同修の家にいました。Bさんはあなたみたいなお喋りな人があまり好きではなく、あなたを敬遠しているそうよ」と言われました。Aさんからこの話を聞いた私は「Bさんにとって修煉って、本当に楽でいいですよね。気に入らないことにぶつかったら、それを避ければいいのですから」と言いました。
実は私にも自分のことを人にとやかく言われたくない一面があることをよく知っています。そして私の悩みはおそらく皆の悩みでもあると思いました。しかし、自分の執着が明らかにわかっているのに、なかなか取り除くことができませんでした。師父は「ですから、良いことにあっても、悪いことに遭っても、大法さえ修めていれば、全ては良いことです。これは揺るぎのないことです」[1] と説かれました。
今やっと分かるようになりました。やはり師父の要求に基づいて行っていないために、同修に言われたことや、指摘されたことをみな良いことであると思っていなかったのです。ですから、気持ちも良くないし、愉快ではないと思うのです。このような状態ならば、真に内に向かって探すことができるでしょうか。
以前の私なら、知らない同修に指摘され、何かといろいろ言われたならば、きっといい気持ちがしなかったはずです。しかし今の私は、師父の説法を読んでいるうちに、Bさんに対する感謝の気持ちが自然とこみ上げてきました。そして、心地よい光に包まれたように暖かく感じています。同修に正直に自分の問題を指摘されることは、自分は本当に「福」がある人だと思いました。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』