他人の欠点を急いで指摘しないように
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2018年9月1日】同修のAさんは交通事故に遭い、病院に送られました。見舞いに行った時、彼女がとても怒りっぽいように感じました。私は家族に「Aさんは普段もそうなのですか?」と聞くと、息子の嫁は「家では、誰もお母さんのことを言えません。私達もよく怒られています」と言いました。ある親戚の人は「彼女は気性が激しくて、私達は皆何も言えない立場なのですよ」と言い、隣のある同修も「それは彼女の欠点です。でも、他の人の言うことを聞かないけれど、私の話だけは聞いてくれたりします。私も彼女の顔色を見ながら、相談するような口調で慎重に話を進めていますよ」と言いました。「なるほど、Aさんの交通事故の原因が分かった。旧勢力に隙に乗じられたのだ」と私は思いました。

 家に帰ってから、私は「今度病院に行った時、必ずAさんとよく交流しよう。彼女の魔性を指摘し、古い大法弟子として、修煉を疎かにし、基本的な問題すらしっかり修めず、どうして円満成就ができるだろうか? もう少しで命を失うところだったじゃありませんか? 早く目覚めなさいと言おう」と思いました。

 Aさんの夫に会うと、夫は「彼女は気性が激しくてね」と言いました。「どうして指摘しないのですか」と聞くと、「彼女が機嫌の良い時に、結構話をしました。彼女も自分が悪いと分かっていて、時々悔しくて、自分の髪の毛を引っ張ったり、顔を叩いたりしました。しかし、なかなか直らず、何かがあればやはりすぐに爆発してしまうのです」と言いました。

 「彼女が機嫌の良い時、結構話をしました」という言葉にとても響きました。私はすぐに自分の問題に気付きました。私は他人の問題を指摘する時、相手が受け入れられるかどうかを全く考えず、思うままに言ってしまい、相手に厳しい言葉を投げつけ、「直しなさい。直さないとだめだ」と、逃げ場がないほど迫りました。一度、私は同修のBさんと交流しました。「あなたはワンちゃんを飼っていて、朝晩散歩をしてあげなければなりません。その時間があれば法を学んだほうがいいのではありませんか。それは修煉者がやるべきことでしょうか? 円満成就できるでしょうか?」と言いました。何度もこのように指摘した後でも、Bさんは依然として直す気配がなく、私は老婆心ながら繰り返して忠告しました。その後、Bさんはあきれて、「会う度に、あなたはこのことばかり言っているじゃありませんか? 私は円満成就しなければどこに行くと思いますか? あなたは偉いですね。あなたに及びません。これからもう付き合いをやめましよう」と言って、Bさんは私の携帯電話をブロックしました。

 ここまで来て、私はやっと、「私は自我に執着し過ぎている。人間の最大の障碍は自我に執着することだ。自分も失敗を重ねながら修煉の道を歩んで来たのに、どうして他人にこれほど強く要求するだろうか? 人と交流する時、相手が『機嫌の良い時』を見て話すのではなく、効果がどうかを全く考えず、いきなり党文化の話し方をすると、相手が受け入れるどころか、かえって反感を買ってしまう。だから、ある人は『あなたが言った道理は受け入れられても、あなたの態度は受け入れられません』と言うのです。態度の背後には次元の高さがあるので、慈悲で、穏やかに、他人のために考える基点に立てば、初めてコミュニケーションをうまくできる。焦ったり、人に強要したり、さらに強い自我を持っていれば、効果がいいはずがない」と気づきました。

 もう一つのことを思い出しました。ある年配の同修Cさんはお金にとても執着していて、息子の嫁とギクシャクしていると聞きました。ある日、Cさんに会った時、私はいきなりCさんに棒喝と言っていいほど説教しました。その時、Cさんはただ笑っただけで、何も言いませんでした。その後、ある法会に参加して、Cさんの発言を聞いた時、私はとても感銘を受けました。Cさんの話によると、Cさんは毎年4万元の家賃を稼げる倉庫を無料で困った親戚に貸し出していました。そのため、親戚は大法に対する考え方を根本的に変えたそうです。そして、商売をしている隣の人は、夜、帰って来て車を車庫に入れられないため、Cさんは自分の庭の塀を50センチ後ろに移動し、隣人が車を車庫に入れられるようにしたことも話しました。Cさんの家は表通りに面しており、土地はお金なのです。しかし、Cさんは平然と譲ってしまいました。その話を聞いた私は、「自分だったら、そこまで出来るだろうか? なのに、どうしてCさんを棒喝したのだろうか? その上、Cさんがしっかり修めていないなどと言ったのは、自分の傲慢な心ではないだろうか」と恥ずかしく思いました。

 師父は「修煉者の他人に対する態度は自分の修煉の表れでもあり、すべての人はこれらのことについて知っておかなければなりません」[1] と説かれました。

 多くの場合、同修の欠点を見ると、自分はいつもマイナスな考えが芽生え、「どうしてこんなにだめなのだろうか? この人は大丈夫なのか? 早く指摘してあげないと……」と思ってしまうのですが、実はその時こそ、正しく自分を修める時ではないでしょうか? 冷静に考えてみれば、自分も同じような問題を抱えているのではないでしょうか? そうでなければ、どうしてこのようなことに出逢うのでしょうか? しかし、多くの場合、自分を修めようとせず、修煉の機会を失ってしまうのです。人は他人を左右することが出来ません。他人を自分の鏡と見なしていれば、向上は早くなります。急いで他人の欠点を指摘せず、冷静に自分を探し、すべての向上するチャンスを逃さないようにしなければなりません。寛容と慈悲は少しずつ修めて得るものです。

 少しの浅い体得です。交流するために書き出しました。同修たちの慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法』「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/24/372822.html)
 
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