文/中国・遼寧省の大法弟子
【明慧日本2016年3月29日】師父はこうおっしゃっています。「法を正す修煉者はまず殴られてもやり返さず、罵られても言い返さないようにしなければならないと私はいつも言っています。それでは、皆さんは修煉の中でトラブルにぶつかった時、何故その心を放棄することができないのでしょうか? 気に障るようなことを言われた時、何故機嫌が斜めになってしまうのでしょうか? 不機嫌になった時、心の中では修煉と向上の機会を排斥しているのではありませんか? 常人と同じような喜びを得たいと思っているのではありませんか? それでは、あなたは常人ではありませんか?!」[1]
「殴られてもやり返さず、罵られても言い返さない」[2] という師父の要求に対し、大多数の同修は実行できていると思います。しかし、「不機嫌になる」ことはよくあり、しかも「不機嫌になる」とともに、同修の陰口を言うこともよくあります。
私は面識のある同修・Lさんに対して、きわめて良くない印象を持っています。なぜなら、親しい同修・YさんからいつもLさんの良くないことを聞いていたからです。私はYさんの間違った言動に気づき、勇気を出して、Yさんにもう陰口を言わないようにと話しました。
師父の法理は低い次元から高い次元まで貫いています。常人はうっぷんを晴らすために人を殴ったり、罵ったりします。それは因縁関係によりもたらされたのです。われわれ修煉者が不平不満を抱いて他人の不足を言いふらしたりすれば、常人が殴ったり、罵ったりするのと何の違いがあるでしょうか? 師父は「内に向けて因を求むは修煉」[3]とおっしゃっています。内に向けて探す同修は、探せば探すほど喜びを感じ、ますます精進しますが、そうでない場合は、きっと師父のお話に耳を傾けず、魔道を歩んでいるのです。私の話を聞いてYさんは考え込んでしまいました。
常人はよく言います。「他人の長所ばかりを見ていると、あなたは宝物箱になり、他人の欠点ばかりを見ていると、あなたはゴミ箱になります」。修煉者は他人の欠点に気づいたら言ってはいけないのではなく、どのような心で言うのかが問題です。どうすればいいでしょうか? 師父の説法には全ての答えがあります。心を静めて真剣に法を学べば、どんな問題でも解くことができます。いつも他人の欠点にこだわり、不平不満を抱いたままではゴミ箱になってしまうのではありませんか。
次元に限りがあり、法に則っていない部分があれば、同修の皆さんのご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「辯少なしに」