文/海外の大法弟子
【明慧日本2019年5月29日】法を正す時期の修煉が絶えず進む中で、一部の学習者の中では少しずつ異なる程度の懈怠(けたい・なまけること。おこたり)が現れ、安逸を求めています。1分1秒もこの上なく貴重な法を正す修煉の中で緩めてしまい、様々な「病業」に邪魔されている学習者もいれば、修煉を放棄した学習者さえおり、非常に胸の痛むことです。それでは、このような環境と旧勢力の様々な妨害に面して、私達はどうすれば「初志貫徹」の状態を保つことができるのでしょうか? 私は自分の体験をもって、皆さんの参考になればと思います。
私はメディアで仕事をしています。メディアに対して師父は、メディアの同修達は毎日顔を合わせて学法するようにと要求されましたので、私は毎朝1時間の学法に参加しました。私は自分が非常に幸運であると思います。なぜなら、このような毎日の固定した学法は、修煉状態を絶えず上昇させ、ますます「初志貫徹」しやすくするからです。
一、法の勉強が「ついてくることができなければ」をどう理解すべきか
実はどこにいても、本当に着実に修めている同修達は、みな非常に忙しいのです。多くの同修もみな学法が重要であると知っています。しかし、いつもいろいろ邪魔され、安定した学法する環境を保つことができません。
師父は次のようにおっしゃいました。「ですから、法の勉強はやはり最も重要で、最も重要なことであり、あなたが行おうとするすべての根本的な保障なのです。法の勉強がついてくることができなければ、すべておしまいなのです」[1]
師父はこの段落の説法でもう一つの概念をおっしゃいました。「法の勉強がついてくることができなければ」もしついてくることができなければ、すべておしまいなのです。ついてくることができないとは、どういう事でしょうか? 学法をすればそれでいいということではなく、「ついてくることができる」というべきです。ここでのついてくることができるとは、私の理解は「量」と「質」の両面からの保証があってこそ、ついてくることができると見做すことができるでしょう。今日は学法して、明日は忙しくて学ばないのではいけません。遅刻や早退してはならず、一講を学ぶのに半分だけ学んだのなら、あとで補わなければなりません。
私は同修が学法の時、遅刻するのをよく目にします。初めの頃は不思議に思いました。学法なのにどうして遅刻するのでしょうか? あなたが学べなかったその部分は、どうしますか? 法の一つ一つの言葉全てが、私達の修煉と功の演化にとってとても重要で、欠かせないものです。もし、いつもここで1段落、そこで数段落少なければ、私はそれも「法の勉強がついてくることができない」、もう一つの現われであると思います。ですので一部の学習者は、段落ごと、言葉毎になに一つ漏れがなく、『轉法輪』を丸ごと学び、何回学んだのかを自問すればいいと思います。
ですので、このような状況の下で、毎日の学法は非常に重要であると思います。それによって基本的な「量」が保障され、学法の完全性が保障され、この環境は基本的な「質」を保障することができます。
実はこのような毎日の学法の堅持にあまり多くの人も要らず、2~3人、あるいは3~4人で結構です。決まった時間に、毎日一講を学び保障します。堅持してこのように学び、学法がついてこれたら、修煉は懈怠しにくくなります。
二、「ついてくる」ことの中で「量」に対する個人の認識
一人一人の修煉の状態で、道は全部違います。学法は毎日どれだけ学んだら、本当に「ついてくる」ことができるのでしょうか? 私個人の理解と修煉の実践によると、毎日『轉法輪』を二講を学びます。毎朝の煉功を終えてから『轉法輪』一講を学び、夜10時以後、自分でまた一講を学ぶことです。この数年、私はずっとこのように堅持すると、不思議にも収穫があまりにも大きかったのです。
多くの同修は、「自分はこんなにも忙しくしており、とても二講を学ぶ時間がないわ。あなたはあまりにも贅沢ですよ」とよく言われます。私はそうではないと思います。肝心なのは、あなた自身の法を学ぼうとする真摯な心です。実は旧勢力の学法に対する妨害は最も大きく、あなたに学法しようとする心がなければ、それらはあなたに二講を学ぶ時間があるようにはさせてくれません。あなたに学法をしようとする心があっても、それほど確固としていなければ、旧勢力はやはりあなたを妨害し、二講を学ばせないでしょう。
私個人の実践によると、私が毎日二講の学法を堅持する時、心は比較的「落ち着いて」おり、常人社会のモノにあまり影響されません。そこで多くのことを割合、効率よく行います。一部の人が多分1日をかけてし終えることを、私はとても速くし終えます。もし私の心が「落ち着いていなければ」、一部の常人のモノに影響され易く、その後、私がやることはグルグル回転しているようで、元々はとても容易にできることが、どうしてもできなくなり、とても多くの無駄な回り道をします。例え原稿を書くにしても、もしも私の心がとても「落ち着いていたら」、すごく速く仕上がります。しかし心が乱れた時は、1日をかけても終えることができません。中国の古(いにしえ)に「磨刀不誤砍柴工(きちんとした準備をすれば、仕事にかかる時間は短くて済む)」という言葉があります。あまりぴったりしませんが、大体このような意味です。
私の周りの同修を見ると、学法がとてもしっかりできている同修は、あまり忙しく見えないのに、実績はとても良いのです。ある同修は朝から晩まで忙しいのに、実績も出ず、その後、「自分はあまりにも忙しくて、学法の時間がない」と言います。私は少し本末転倒しているように思います。あるいは、あまり良い循環ではない状態なのでしょう。
まとめてみると、「法をよく学ぶことは、私達が全てをよく行う根本的な保障」なのです。多くの学習者はみな言うことができますが、実践することはいつも難しそうです。ですので、固定された学法の按排の保障があって、もし学法の量をもっと増やすことができれば、懈怠しにくくなります。これは、初志貫徹する状態を保つ、一つの肝心な要素です!!
個人の修煉の理解で、適切でない箇所は同修のご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」