シートベルトの取り締まりから 学法の仕方を考える    
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2018年12月15日】今年の10月に、私は家族と一緒にカナダのある名所を観光した後、帰る途中で、シートベルトの取り締まりをする2人の警官に遭遇し、停止を求められました。 

 警官は親切に嫁に話かけてきました。私は英語がわかりませんので、何が起こっているのか全然気にしていませんでした。しばらくすると、嫁は後ろに振り向いて、後部座席に座っている私に言いました。「シートベルトを締めてくださいって言っていますよ」。私はなるほどと思いやっと警官の話が分かり、すぐにシートベルトを付けました。警官は車のナンバーから地元の車ではないことが判明し、罰金は免れました。車は再び動き出しました。山を登り、険しい道を走っていましたが、綺麗な風景は私の目に入ってきませんでした。ただ、カナダの警官の真面目な仕事ぶりと礼儀正しくて親切な態度が、私の目の前に浮かびました。私は心からカナダの警官に敬服しました。

 嫁は運転しながら私のことを説教しました。「何回も教えてあげたでしょう。カナダでは後部座席のシートベルトの着用が義務づけられています。お母さんはいつも付けないでいますが、問題が起きたら自己責任ですよ」

 嫁の説教を聞いているのですが、しかし、自分なりの考えもありました。私は中国にいたとき、シートベルトを付けたことがありませんでした。カナダでは数回だけ付けたことがあります。考えているうちに、突然、自分は修煉者ですから内に向かって探すべきだと、目醒めました。しかし、自分は一体どこに問題があるのかと思いました。とその時、ある気づきにくい一念を見つけました。つまり、自分は修煉者ですので、法があり師父がおられます。それで師父が守ってくださるから、事故を起こすはずがないといつも思っていました。その時、師父の法を思い出しました。師父は「わたしの本を手にして、街を歩きながら、『李先生が守ってくれているから、車なんか怖くない!』と叫ぶ者もいますが、それは大法を破壊しているので、このような人を守るはずがありません。実際、真に修める弟子はこんなことをするはずもありません」[1] と説かれています。

 自分は20年も修煉している古い学習者なので、数え切れないほど『轉法輪』を読みました。しかし、今よく考えてみたら、普段どのような態度で学法しているだろうか? つまり、読むだけ、見るだけでした。読み終えたら、何を読んだのかが分からないまま、法に対して何も考えず、理解しようともしませんでした。もちろん、このような学法の仕方や状態では実生活の中で、法に基づいて行動していないことも多くあるのではないかと、想像できました。今日のことで、自分の過ちで大法に泥をぬっているのではないかと考えたら、ゾッと身ぶるいしました。

 私は嫁に「ごめんなさい」と涙ながらに言いました。嫁は「家族ですから、謝らなくてもいいですよ。安全のために、これから注意しましょうね。お母さんは悲しまないで、大丈夫ですよ」。私は「あなたに言われて悲しくて泣いているのではないのよ。ただ師父のおっしゃったように行っていないことを悲しく思い、泣いているのよ」。それを聞いた嫁は何も言いませんでした。

 それからというもの、車に乗るときは家族の誰よりもまず先にシートベルトをつけ、家族にもつけるように声を掛けています。

 この出来事から私は悟ったことがあります。つまり、もっと真面目に学法することです。本をいくら読んでも、何を読んでいるのかわからないままではいけません。師父からの恩恵だけをいただくことばかり願っていること自体、何ももらえないのです。かえって、師父と大法に泥をぬることになりかねません。

 ここで人の安全や安心のために、親切な対応をしてくださったカナダの警官にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。感謝いたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/25/377120.html)
 
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