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積み上げた柴に関する出来事


文/中国河北省の大法弟子

(明慧日本)それは去年の夏の出来事でした。今でも思い出すと、そのときの自分の行いは、修煉者からはあまりにもかけ離れていたものだったので、このことを人に知られてメンツを失うことを恐れ、周囲の同修にも言わなかったのです。今日初めてこのことを大勢の同修に告白します。ネットでの交流の機会を与えてくださった師父に感謝いたします。同時に、私の教訓が同様な問題のある同修の啓発になれば幸いです。

  私の家の前に住む隣人は、多くの家畜を飼っています。隣人は我が家の土地を多く占有しようとし、私の家の玄関の前に柴(薪に適した木材)を積み重ねたのです(私の家の玄関口は、隣人の建物の裏側にある)。農村にはどの家にもロバ車があって、我が家にもありました。隣人が山積みした柴は、ロバ車の出入りの障害になっていました。夫は、隣人のこの行為がよくないと私に愚痴をこぼしていました。私は夫の言うことに一理あると思いましたが、このことについて特に自分の考えを述べませんでした。柴はそれほど高く積まれていなかったので、ロバ車は工夫すれば何とか通ることができました。

 隣人は多くの牛を飼っていました。毎日、牛が食べ残した木の枝を柴の上にどんどん積み上げ、積み上げた柴は日増しに高くなっていきました。この家族は以前から自分勝手で、近所の人たちはこの家族のことが気に入りませんでした。みなが集まればこの家族のことが話題になっていました。私の夫は怒りっぽい性格で、柴を高く積み上げていることで怒り出しました。怒り出した夫を落ち着かせようと、「あなたは相手にしなくてもいいよ、家の玄関口まで積み重ねたときは、その柴を使ってご飯を炊くから」と私は言いました。考えもしなかったのですが、夫はその積み上げた柴を崩し始めたのです。集まった人たちは夫に止めるように説得しましたが、夫は聞き入れないだけでなく、その家に向かって行ったのです。

 その家の息子さんは一部始終を見ていたため、夫と会った瞬間にお互いに罵声を浴びせ始め、しまいに両者は殴り合いを始めました。それでも満足せず重い石を持ち上げて相手に投げようとしたのです。このとき集まった人たちが苦労してやっと喧嘩を止めさせたのですが、そうでなければ大変なことになっていたと思います。

 夫が家に戻ったとき、私は子供を抱いていました。周囲の人々は、子供に恐怖を与えないように、隣の家に行くよう勧めてくれました。しばらくして私が家に戻ったとき、夫は『転法輪』を読んでいました。そして私に「どうして人と喧嘩したのかな、本当にいけないことをした。しかも常人を相手に」と反省していました。これは、夫が修煉の道に入ってから初めて喧嘩したことなので、私は「分かればいいので、今後気をつけましょう」と話しました。 

 しばらくしてから、その家のご主人が出てきて罵り始め、続いて奥さんも罵り始めました。その罵声は昼から夕方まで続きました。私は内に向けて探し、我が家には非がないと思い、これは間違いなくその家族が邪悪に操られ、私達を妨害していると思いました。私は正念を発し続け、その家族の背後にいる邪悪生命を取り除きました。翌日、私はその家を訪ねて、人の前で罵らないで欲しいと謝罪したのです。このようなことをするとこの家族にもよくないと思ったからです。これですべてが解決したと思い、家に戻りました。ところがこの家族の息子さんは酒に酔っぱらってまた罵り始めたのです。私は心の中でどうしたことなのか、どうしてきりがないのかと考えました。

 今度こそ真に自分の内に向けて探しました。事のはじめはすべて自分の心によるもので、初めから相手を恨み、相手が横暴であることを恨みました。謝りにいったのですが、それは罵るのを止めて欲しいからでした。今回発生したトラブルは恨む心から生じたものであることが分かりました。以前にも、人と一緒になって、その家族の行動がいかに理に適っていないかと言ってしまい、自分はいかに度量が大きく、相手を許してきたかなどと口を修めなかったのです。実際のところ、本当に善のある人であれば、これらのことを口にするはずがありません。私はこのことで常人とどちらが正しいかを争っただけでなく、自分のずる賢いところを隠したのです。自分の執着心を見つけて動功の煉功をすると、今まで経験したことのない、身体中が軽やかで美妙な感じがしました。そしてその家族の罵声も消え、何もなかったかのようで、まさに「柳暗花明又一村」、眼前に新たな世界が開きました。

 「心性が向上すれば、他のものも同時に向上します」(『転法輪』)のように、わたしの身体に大きな変化が起きたのです。

 今回の心性の向上は痛ましい教訓を経ました。修煉者としては問題が起きてから内に向けて探すのではなく、常に正念を持つべきです。

 くどくど書いたのは内心の思いを書き出したかったからです。数回読みなおしましたが、やはり何か足りないと思いました。これはもしかすると「心で悟るのみで、言葉で説明のできるものではない」のかもしれません。

 2009年10月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/9/21/208740.html

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